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 その日を境にして、あの悪い男は毎日家の中に来るようになった。ママさんはミクの前でこそいつも通りに振舞っている。だけどそれ以外はビクビク怯えて過ごすようになってしまった。それだけじゃない。ご主人様も―― ご主人様はいつも疲れて、辛そうな顔をしてピリピリモード。取扱注意。それもこれもあの日からだ。あの日あの時―― 「あなた……例の奴が来たわ」  夜の晩酌の時間。ご主人様がカイシャ――あの男が言うにはもうカイシャには行ってないみたいなんだけど。じゃあ毎日どこに行っているんだろう。ミクが朝からいる『ニチヨウビ』っていう日にもお家にいないのに…… あっ、話が逸れちゃった! とにかくその日も、どこかから帰って来たご主人様がボクを撫でながら一人でちびちびお酒を飲んでいる最中に(ご主人様はほとんどお酒が飲めないのだ)、ママさんはミクが悪いことをして落ち込んでいるような顔をしているのに、深刻そうにそっと、自分の大切な秘密を教えてくれるようにご主人様にたった一言告げる。 「例の奴って?」  言われたご主人様はキョトンとして、分からないとばかりの困った笑顔で自分の頭をかく。これはご主人様の困った時に良くするクセだ。いつもならそのクセをしたらママさんも笑ってくれるのに、その時は違った。 「ほら、前会社に来たっていう例の……」  ママさんは一切笑うことなく、険しい顔で言葉を続ける。 「あいつか!」  パパさんはママさんの言葉に突然怒った大声を出すと、バンッ! と勢いよくテーブルにお酒の入ったグラスを叩き付ける。こんな怒ったご主人様は見たことがない。ただ怖かった。 「あなた。ミクが寝ているんだから」 「そう……だったな。すまない」  ママさんに注意されるとご主人様は素直に謝り、まだグラスにいっぱい残っているお酒を一気に飲み干してしまう。ああ。そんなに一気に飲むと主人様はすぐ寝ちゃう! だけどこの時のご主人様は寝ないどころか、とても酔っぱらいには出せないほど顔が険しくなる。 「これからどうするの? あいつは月末までには払えって……」 「月末まで時間はあるさ。そうだろ?」  ママさんの重々しい響きの言葉を遮るように、ご主人様は優しくママさんに言葉を掛ける。でも顔は険しいまま。どうなっているの? ご主人様はこんな風に顔と言葉がバラバラになる人間じゃないのに…… 「でもあなた! あんな大金……今の私たちじゃとても……仕事を失った上に、これからの生活だってあるのよ!」 「そんなこと分かっているよ!」 「だったら……!」 「だから僕は毎日、朝から晩までこうして血眼になって職を探し歩き、その合間に金策にも動いている。でも僕には今までの大企業の部長だったという信用がある。知り合いも多い。いざとなれば僕らそれぞれの両親に頼めばいい。そうだろ?」  なんだか二人で難しい話をしている。その内容はボクには分からない。ただ二人の空気がピリピリなのは、ボクにビンビンに伝わってくる。こんなことも今までなかったのに! 「あなたこそ何言っているの!? もう部長じゃないあなたに、誰もそんな大金貸してくれる訳ないじゃない!!」 「一人に全部借りる訳じゃない。全員に少しずつだな――」 「そんなこと言って、もう誰一人だってお金なんて貸してくれないじゃない! 私たちの親ですらこれ以上巻き込まれまいと!!」 「――っ!!」  ママさんのその一言でまたご主人様の顔色が変わった。顔がカッと赤くなる。 「さっきからうるさいぞ!! お前は黙って俺の言う事に従えばいいんだ! ――あっ!」  ご主人様はつい怒鳴ってしまっただけだ。だってすぐバツの悪い、申し訳なさそうな顔をした。でもママさんには―― 「そう。それがあなたの本心なのね」  ご主人様の思いが伝わらなかったのか、それとも伝わるけどあえて無視しているのか、ママさんは目からツゥーっと涙を流れ、ご主人様をその場に残し、ママさんはさっさと部屋から出て行ってしまう。 すぐに扉の外から、「あら。起きちゃったミク? さあベッドに戻りましょうね」という不自然にママさんの明るい声がボクの耳に聞こえる。 そしてリビングに一人残されたご主人様。急にママさんには見せないような疲れた顔で、ドカッとソファに座り直す。ボクは少しでもご主人様の気分を癒すために、慌ててご主人様を舐める。いつもだったらそれでご主人様の気分は治り、笑顔に戻るのだ! エッヘン! でも―― 「ごめんな、タロ。今はそんな気分じゃないんだ」  と、ご主人様は僕を拒絶した。どうして――
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