カーニバル

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カーニバル

 「私は人が経験していないような苦労をしましたが、人が経験しているような苦労はほとんどしていません」おそらく社会的入院というやつなのだろう。長い間統合失調症で入院していた人が、テレビのインタビューで答えていた。  ボクは入院こそしていないが、重い統合失調症に苦しまされた人間として、この人の言葉はよく分かるのである。  人生には「超えなければいけない壁」と「別に超えなくてもいい壁」があり、今立ちはだかっている困難はどっちの壁か、その取り違えをすることから悲劇というのは起こるのだと思う。  ボクの人生は「超えなければいけない壁」から逃げ回り「別に超えなくてもいい壁」ばかり無理矢理超えさせられてきたものだったと思う。  そういう人間は、どこか精神が片輪になってしまうと思う。  高校を2年で中退して統合失調症を発症し、どこに行くでもなく、誰と口をきくでもなく、何年も引きこもっていたある日、母は言った。 「あるクリエイターの人が、本が好きな若い人を探していて、亮太に会ってみたいって言うの。会ってみない?」  正直その話を聞いた時は、あまり乗り気がしなかったが、ボクは小説家を目指していくつか小説を書いていた。そして、その小説をその「あるクリエイターの人」に読んでもらいたいと思った。  母はボクが高校を中退し、病気になってしまったことへの心労で40代にして髪が総白髪になってしまっていたので、定期的に髪を黒く染めなければいけなかった。  「あるクリエイターの人」はHという名前だった。第一印象は少し怪しい人だと思った。片目がロンパリで、髭をはやし、細長い輪郭で、頭は少しハゲていて、痩せていた。HはI婦人という奥さんとともにやってきた。  その人が最初に話したのは「テレビ東京はなぜアニメばかり作っているのか」という内容だった。細かい内容は忘れてしまったが、要はテレビ東京は東京ローカルな局で全国放送ではないため、どうしても視聴率を取るのが難しく、固定客にDVDを売ることで収益が見込めるアニメを多く作っているのだ、という内容だった。  ボクは最初このHとI婦人にかなり媚びへつらったのを覚えている。自分の知る限り手品をしたり、ジョークを言ったり、クイズを出して楽しませようと努力をした。自分の引きこもり生活はこのままではいけないとどこかで考えており、そこから脱出する糸口を探していたのだろう。  ボクの書いた小説も頼んで読んでもらったが、Hは「おもしろい」とは一応言ったが、やはり売り物になるかと言えば難しい、というような返事だった。  Hはテレビの仕事をしていると言った。 「じゃあ、番組が終わったあとのエンドロールを見たら、Hさんの所属している会社名が映るんですか?」とボクは訊いた。 その質問にHとI婦人は「いやあ」と笑ってごまかすだけで、どこで働いているのかは最後まで言おうとはしなかった。今思えば電通という、世間、特に若い人たちからの評判の悪いところで働いていたのだろう。だから交流を断たれるのを恐れて会社名を言わなかったのであろう。  最初に会った日、Hは「ボクたちのこと怪しい宗教の勧誘やねずみ講の勧誘だと思った?そんなんじゃないからね」と言って、帰っていった。Hは空手を何年もやっており、なかなかの腕前だった。  Hとボクは沖縄に旅行に行った。Hが連れて行ってくれたのだ。  ひめゆりの塔で戦争の生き残りのおばあさんから戦争の話を聞いた。  沖縄で初めてボクはスパムと卵焼き定食を食べ、あまりのおいしさにボクは埼玉に帰ってもこの料理を自分で作って食べるようになった。  「沖縄開発庁なんて必要なんですかねえ」という話をしたりした。Hはそういうボクのことを気に入ったらしく、「白瀬くんがその気なら慶應義塾大学の法学部に推薦で入れてあげるよ」と言った。  タイにも行った。その時水掛け祭というのがあり、水鉄砲でお互いを撃ち合い、ビショビショになった。タイでは子どもの頭をなでてはいけない、というタブーを聞いていた。どうもそれは嘘くさい、都市伝説ではないかとボクは疑っていたので、水鉄砲売りの子どもたちの頭をなでてみたが、周りの保護者と思われる大人たちは特にリアクションはなく、その光景を普通に見ており、やはり都市伝説だと内心思った。  タイではゲイのカップルが人目をはばからず公然といちゃついていた。  夜になり、12歳ぐらいの娘を連れた母親に「この子を買わないか?」と言われた。断ると、その母親は外国人旅行者と思わしき人びとに声をかけ続け、最後は体の大きい太った白人がその少女を買っていた。  タイの最後の夜、Hは自分はH杏林私塾というフリースクールを経営しており、そこに来ないか、と言った。  塾に入ってからHに違和感を感じるようになった。金儲けの話とエッチな話しかしないのである。それしか世界には存在していないかのようであった。  例えばボクが「Hさんには好きなアイドルとかいました?」と訊いたところ、 「アイドルってのは偶像だからね。ボクはそういうの興味ないよ」と答えたきりで、全然話が膨らんでいかなかった。この人には愛や情みたいなものが欠落しているのかな?と思った。I婦人はHのことにあきらかに惚れていて(Hのした投げキッスを財布にしまったりしていた)だからこそ結婚したのだろうが、こんな人間のどこを好きになったのかよくわからなかった。  Hの金儲けの話は例えば「雪だるまや雪で作った彫刻をお金を払って制作体験できるイベントを企画した人がいるんだよ。そして雪で作った作品を後日金を取って外国人に見せたわけ。そういう『両方から金を取る』っていうやり方が賢いやり方なんだ」というものだった。  たしかにボクはビジネスのことは当時ほとんどわからなかった。しかしよくわからないなりに、言葉にできないなりに「なんか変だ」と感じる事はある。そんな企画をして、両方から金をとって、仕事としてのやりがいや達成感は得られるのであろうか?金儲けのことばかり考えていて虚しくならないのだろうか?Hは当時流行りだしていた新自由主義の信奉者で、当時の総理大臣小泉純一郎や竹中平蔵を尊敬していた。自分の金儲けのことしか考えないHをボクは軽蔑するようになった。また、Hはタバコの煙を極端に嫌った。  また、エッチな話ばかりするのも気持ち悪かった。もちろんボクだって猥談はすることがある。しかしHはエッチと関係のないどんな話題を振ってもエッチな話と結びつけてコメントをするのだった。色と金しかこの人には見えていないんだな、と思った。今思えばサイコパスというものだったと思う。  理由は忘れた。たぶんあんまり居ても楽しくなかったからなのだろう。塾を1週間ほど休んだことがある。1週間ほど休んだあと、また塾に顔を出すとI婦人が 「白瀬くんが1週間塾に来なくてキジがさびしそうにしていたよ」と言った。  その時からボクはキジのことを意識して見るようになった。ボクはどちらかと言えば女性の方が好きだが、高校時代は男の子の恋人もいたし、そんなに抵抗がなかった。    キジは本名を木島賢一と言った。背がボクより高く、175センチ以上あったと思う。痩せていて、長髪の男だった。そして何よりの特徴は汚い、ということだった。  何日も風呂に入らず、いつも髪はポマードを塗ったようにテカテカしており、そこにフケが大量に浮いていた。そしてしょっちゅう鼻くそをほじっているような男だった。そのため、I婦人などによく「ティッシュで鼻をやりなさい」と注意されていた。言われた時はティッシュを使うが、しばらく経つと元通りということがよくあった。  キジから聞いた話によると、彼が床屋に髪を切りに行った時、あまりにも髪が汚いので床屋はまずハサミを入れる前に髪の毛をシャンプーし、その後乾かしてから髪を切り、その後もう一度シャンプーをしたそうだ。  また、ボクたちは塾に入ると職業適性検査を受けさせられた。機械の運転が向いているとか、事務仕事が向いているとか結果が出るのだが、キジは向いている仕事がなにもない、と診断されてしまった。HとI婦人は気を使って検査の結果を公表しなかったが、キジがHに尋ねたところ、実はこうこうで、と教わったらしい。  キジはコーラが好きで、リュックサックにコーラを入れていつも飲んでいた。そして例によって歯はめったに磨かないので、歯はボロボロになっていた。  キジにも長所があった。それは将棋が強い、ということである。負けず嫌いの性格もあって、勝負事には強かった。いつも将棋の本を持ち歩き読んでいて、キジの家には本棚いっぱいに将棋の本があった。全部を読み、ほとんど頭に入っていると言った。ボクはよく知らないが、将棋の奨励会に通っており、かなりいいところまでいっているという噂だった。  将棋の町山形県天童市にHとキジで旅行に行った時、2人は同じ部屋に泊まったのだが、キジはトイレのドアを空けたまま大便をしていたのだそうだ。  キジは千葉県の地方に実家があり、埼玉県の春日部の塾に通うのは遠いので、Hの所有するアパートで一人暮らしをしていた。  『デスノート』というマンガに幼稚で負けず嫌いな天才名探偵Lという現代風な若者のキャラクターが出てくるが、Lを見た時ボクは真っ先にキジを思い出した。  塾の保護者面談の時、キジの両親は「白瀬亮太様はどのようなお方なのですか?」と真剣に訊いた、という話を後からHから教わった。「白瀬様、だって、すごいね」とI婦人も笑いながら言っていた。  キジが20年生きてきた中で、生まれて初めてできた友だちがボクなのであった。しかも恋人として付き合ってくれてもいるらしい。そんな優しく、素晴らしい方はどんな人なんだろう、とご両親は思ったらしい。  キジの両親から千葉にあるキジの実家にボクは招待された。「ぜひお会いしたい」ということだった。  最初はキジの父親とキジとボクで小さな川でアユ釣りをした。小さいミミズみたいなエサに触るのをためらっていると、キジのお父さんが代わりにつけてくれた。アユは比較的簡単に釣れた。入れ食いというやつだ。塩で味付けをし、棒を刺し、焚き火で焼いてアユを食べた。骨が多かったがおいしかった。  その後、キジの実家に行った。キジの父親はお酒が好きだと聞いていたので、箱に入ったウィスキーをプレゼントした。キジの父親は早速飲みだした。そして『ぽいっと』という『ぷよぷよ』のパロディのような落ち物パズルゲームをやりだした。  キジのお母さんは食べきれないほどのごちそうを用意してくれた。キジのお母さんはボクのことを偉い王様か何かのように手を変え品を変え褒め称えてくれるので、逆にボクは恐縮してしまった。キジに友だちができたことが相当うれしいらしかった。  食事を食べ終え、キジの部屋に入った。大きい本棚に将棋の本がたくさん並んでいた。  2人で将棋を指した。将棋の羽生善治の逸話で、羽生さんと将棋を指していた家族が負けそうになると、2人の席を交換し、そこからまた将棋を続け、そういう劣勢の状態でも羽生さんは将棋に勝つことができた、という逸話をボクは知っていたので、それをやろうと言った。ボクが劣勢になったところで2人の席を交換して、続きを指したが、あっという間にキジは形勢逆転をし、キジが勝った。「かなわいなあ」とボクは言った。  カバンに入れてきたお酒を飲み、いい感じに酔っ払ってきたので、ボクはふざけて「キジー」と言いながらテレビゲームをしていたキジの両肩をつかんだ。キジは明らかにビクッと動き、動揺した。  おしっこをしようと思い、トイレの前に行くと、キジの母親がキジの父親に書いたメモがあった。 「電気を節約するのもいいけど、そればっかりになるのはかえって無駄だと思います」というようなことが書かれていた。よく男は吝嗇を、女は嫉妬を慎まなければならないというが、要するに自分の夫が男なのにケチなのが嫌だと思っているらしかった。ボクの前ではそんな素振りを見せなかったが、夫婦仲は冷めきっているようだった。以前読んだ何かの本に「妻が夫を尊敬していない両親の子どもは将棋で強くなれない」と書いてあったのを思い出していた。  キジの部屋に戻り、キジとエッチをしようかと思ったが、キジはあまりにも汚いので抱く気になれなかった。ボクたちは布団を並べて寝た。  H杏林私塾ではやりたい人は空手の訓練もすることができた。ボクは運動が苦手なのでやっていなかったが、2人の塾生がやっていた。  そしてある日空手大会に出ることになり、応援に行った。  ボクは応援に行ったものの、ほとんど応援をせず、漢字検定の勉強をずっとしていた。それがHには気に入らなかったらしい。その後のレストランでの打ち上げでHはボクの方を見ずに「作家志望なんて何人いると思ってるんだ。作家になんてなれるわけがない」と聞こえよがしにいった。Hにはプチクリという概念がないように感じた。  Hはこんな事を言ったこともある。「街とか歩いていて、向こうから殴ってきてくれればいいな、って思うことがあるよ。そうすれば正当防衛でそいつのことボコボコにやれるのに」と別の塾生の前で聞えよがしにイライラした口ぶりで2回もこの話をした。Hの思考回路は法律的に問題がなければなにをしても良いという考え方で、それ以前に人としてそんな事をしてはいけない、という考えはないようであった。  デートはいつもゲームセンターだった。いろいろな街のゲームセンターに行き、遊んだ。キジはやはりゲームが強かった。ボクはあまりゲームがうまくなかった。「別に負けてもいい」とどこかで思っているからだろう。格闘ゲームやクイズゲームやシューティングゲームをした。キジがゲームに夢中になっているのを後ろから見守りながら、ゲームが人を犯罪に走らせるのではなく、孤独な人間に最後まで寄り添ってくれるのがゲームなんだろうとボンヤリと考えた。  キジとボクは自転車に2人乗りで走っていた。男女の自転車の2人乗りしたカップルとすれ違った。キジは「あの人たち、ボクたちみたいだね」と言った。  自転車を漕ぎながら「キジ、オレのことどう思う?」と尋ねた。キジは「友だちだと思っているよ」と言った。「友だち?」「うん」「オレはさ、キジのこと結構いいなって思っているよ」  その頃からキジの様子が変わっていった。『恋愛マニュアル』的な本を読んでいたが、それに影響されたのかもしれない。まず、電話をしても出なくなった。何度コールしても無視で、履歴は残っているはずなのに、向こうから折返しでかけて来ないようになった。  また、デートが終わって分かれる時「これから別の男の子と会うんだ」と言う話を毎回するようになった。「誰それ?」と訊くと、「白瀬くんの知らない人だよー」と言って笑うのだった。  塾にはHとI婦人の他に藤山さんという先生がいた。  藤山さんは20代なかばくらいの、少し化粧が濃いが、かわいい女性の先生だった。小熊くんという不良の塾生が、明らかに藤山さんに惚れており、小熊くんはよくおもちゃのバットで藤山さんのお尻を叩いていた。 「藤山ケバっ」とよく小熊くんは言っていた。小熊くんは藤山さんは「おばさん」と言ってからかっていた。  当時流行っていたテレビドラマ『ごくせん』の仲間由紀恵演じるヤンクミを藤山さんはどうやら少し意識しているようだった。塾には半分はヤンキー系で、もう半分はボクたちいじめられっ子タイプのグループができていた。  藤山さんがI婦人に怒られていた。どう見てもI婦人の言いがかかりで、また、怒るなら怒るでボクたち塾生の見ていないところでやるべきだと感じた。  I婦人はいい年をしたぶりっ子で、青春時代だった80年代を今も生きている人なんだな、と感じさせる人だった。そしてそのぶりっ子の女性は仕事ができるアピールをするために、下の人間を叱るのであった。  I婦人が去った後、ボクは少し泣いている藤山さんに 「女性はある程度年が行ったら、ハートとか星とかやめようって思うもんじゃないですかねえ」I婦人はハートや星が大好きで、そういうシールを塾の窓に貼っていた。  「そういうのは恥ずかしくなる時があるよね」と藤山さんは笑った。  ボクとキジが恋人同士なのは塾の人間はみな知っており、キジのアパートに泊まったあと、自転車で2人で塾に行ったりするのでバレバレであった。  HとI婦人とボクで車で買い物に移動している時、Hはボクに「人を呪わば穴二つってことわざがあるけど白瀬くんはどう思う?」と唐突に言った。「人を呪ったらさ、自分にもその報いが帰ってくるってことだよねえ」と続けた。 「呪われた云われを聞けば穴二つ」とボクは答えた。 「ん?どういう意味?」とHは言った。 「え、知らないですか?有名なネタじゃないですか」 「どういうの?」 「だから呪われてしまったと。なんで呪われたの?って訊いたら、穴を二つ作ったから、っていう」  ボクは女性の前では言うべきではないようなことをふざけて答えたが、今思えばこの時Hはボクに復讐をする計画を立てていたのだろう。そしてその復讐が巡り巡ってH自身にも帰ってくるのを心配してこんな形でボクに探りを入れてきたのだろう。  温泉旅行に塾生で行くことになった。キジはよく寝坊をするので、待ち合わせの時間より早くキジのアパートまで起こしに行った。その事をしったI婦人は「こんな優しい子いないよ」とHに言っていた。Hは聞こえていないふりをしてなにも答えなかった。    実際着いてみると、そこは温泉ではなくてただの大きなお風呂に過ぎなかった。Hは平気で嘘をつく人間だった。  お風呂にキジと入った。キジはパンツのまま風呂に入った。  ボクが体を洗っていると、突然Hが隣に来てボクの体をじっと見た。  Hに話しかけてもなにも答えずこっちを見ている。  気持ち悪くなって風呂を途中であがった。  ある時、塾の1階のテレビゲームの部屋で、キジと藤山さんがケンカを始めた。 「あんた、もっとちゃんとしなさいよね!」と藤山さんは怒鳴った。 「いやあ、藤山さんには負けますよ」とキジはのらりくらりと交わした。  2人の言い合いは止まらず、修羅場になっていった。ボクは何度かキジに「藤山さんに謝ったほうがいいよ」と忠告したが、キジは無視し、藤山さんと言い争いをしていた。  結局先生という立場的に藤山さんが折れざるを得なく、彼女は負けて去っていった。去っていく姿がなんだかすごいかわいそうに思えた。  その数日後、明らかにイライラした藤山さんがボクたちがゲームをしていた部屋に来た。  キジや友だちたちが、ボクに向かって「やばいぞ」と合図をだしたが、それがボクにはなんだか分からず、ぶっきらぼうに「なに!?」と言った。  友だちが指をさすと、濡れたらゲーム機が壊れるからという理由で置くのが禁止されていたボクのペッドボトルがゲーム機の上に置きっぱなしだった。ボクは数秒考え、 「やあ、藤山さんはいつ見ても、おきれいですね!」と言った。 「はあ?踏むよ」そういったまま藤山さんは長いこと固まっていた。  「とにかく、この部屋にペットボトルを置いたらダメだから」そう言うと、藤山さんは去っていった。  それからまた数日後塾に行くと、 「白瀬くーん」とぶりっ子な声で行って、藤山さんがピョンピョンと跳ねた。  そしてその日、Hが他の塾生たちに大学推薦の話をしだした。  ボクは推薦してくれないんだな、と確信し、自分のロッカーの荷物(その中には慶応大学への入学案内もあった)をまとめて、塾を去った。それがボクがH杏林私塾に行った最後の日だった。  キジがHからアパートを追い出されたというメールが来た。 「アパートをHさんに追い出されました。外は雨でした・・・」と綴られていた。  入る時は塾の学費は「タダだ」と言っていたが、実は父と母とHが口裏を合わせてボクを騙して通わせていたことが明らかになった。  実際は月に5万円も支払っていた。  そのことでボクは母を何度も責めた。  ある夜、赤ワインを何杯も飲んでへべれけに酔っ払ったボクはその勢いに任せてキジの携帯に電話をした。 「キジか。あのさ、言いたいことがあるんだけど。どこで知った手口か知らないけど、他の人に気があるふりをして、人にわざと嫉妬させて気を引くやつ、あれやられるとすごい嫌な気持ちになるんだけど、やらないでくれる?そういうことするならもうキミとは会わないよ。だってキジといても全然楽しくないもん。電話だってどうして出ないの?キミのやっていることは人の好意を踏みにじることなんだよ。こんなこと言いたかないけどさ、惚れているのはそっちじゃないか。なんでこっちが一方的に尽くさなきゃいけないんだよ。そういうのすごい不愉快なんだけど。それじゃあもう恋人でも友だちでもないじゃん。もうそういう事するならキジとは会わないよ」  キジが電話の向こうで泣いているのがわかった。 「もうしないから」 「もうしないって、それは今そう言われたからしないってだけなんだろう?ボクはそんなことなにも言わなくても初めからしない人と付き合いたいよ。そういう人を友だちや恋人に選びたいよ。なんでそういう事をするの。もうキジとは会わないよ。用件はそれだけだから。いいね、切るよ」  こんな時だからこそ、2人の絆を強く持たなければいけないことはわかっていた。こんな時だからこそ2人の関係が試されるときだとはわかっていた。八つ当たりだとどこかで気付いていた。「はじめての恋愛でよくわからなかったんだね。今度から気をつけてね」そう言ってやれば済むことだとわかっていた。でもそれができなかった。正直、キジにはもううんざりだった。  ボクは電話を切った。  これで全てが終わったんだな、と思った。  未来に希望はなにも見えなかった。  キジの事を思い返す時、ボクの好きなピロウズというオルタナティブ・ロック・バンドの『カーニバル』という曲を思い浮かべる。    観覧車に独りで暮らしてる    大嫌いな世界を見下ろして    待ってたんだ キミと出会う日を    かしこまった日射しに こげながら    僕だけの窓を開いて    待ってたんだ ここでこうなる日を    手をのばしても    報われない時代    救われない未来    キミとキスして笑いころげる  ボクらの恋愛もこんな感じであった。誰かが書いていた文章を思い出す。暗い人間は恋愛ができないわけじゃない。暗い恋愛をすればいいのだ。
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