自転車

1/1
前へ
/1ページ
次へ

自転車

 俺は極度の怖がりだ。  お化けやホラー映画なんてもってのほか。単に「暗い」と言うだけで、足が思うように前に出なくなる。  そのせいでからかわれる、ということは無い。激怒して周りをドン引きさせてしまうからである。それほどまでに怖いものNGなのだ。  だから仕事帰りに駅から自宅までを自転車で走るのが、嫌で嫌で仕方ない。  毎回競輪選手かっていうくらいスピードを出してママチャリを漕ぐから何度も車に轢かれそうになった。  それでも早く帰ることが重要だった。命よりもその場の恐怖が勝ってしまうのだ。  他にも問題がある。早く帰るためには相応のスピードを出すわけだが、そうすると視界を流れる風景も応じた速さで端を過ぎていく。  中心付近からあっという間に視界から消えていく、民家の玄関前に置かれた植木鉢やバイク、道路脇のゴミ袋に電柱、これが怖いのである。  わずかな間しか捉えられない、つまりよく見えないから、何かしら化物や幽霊なんじゃないかと思ってしまうのだ。  だから、走行中は道の先以外をなるべく見ないようにしている。恐怖が原因でパニックを起こして近所迷惑、は申し訳なさすぎる。自衛することが大事なのだ。  そんな調子で、今日も駅の駐輪場から自転車を引いてきては、場内から出たら往年の仮面ライダーばりに勢いよく跨って町内を爆走していく。  自宅までおよそ4kmの道のりを10分かからず走破するのだから、我ながらやりすぎだとは思う。けれど信号も少ない上、人通りも少ないから大目に見て欲しい。  っと、ここでその少ない信号で足止めされる。反射的に指が曲がってブレーキをかける。大半の人が不快な甲高い音が響く。酷使している分、部品の消耗も激しい。そろそろ替え時かもしれない。  そんなことを思いながらも、相変わらず視界の端には、人なのか物なのかよく分からないもの達が次々と流れていく。怖いから目を瞑りたいくらいである。  瞬きをした直後、左目の(きわ)に本日何十回目かの、黒い、しゃがんでいる一般的な成人女性くらいの影が見えた。  不規則に跳ねる心臓、数瞬だけ我慢すれば……。  そのはずだった。  人ほどの黒い塊は時速30kmの自転車と並走してきたのだ。 (気のせい気のせい気のせい気のせい)  心の中で念じ続けた。  俺には、自分の暗闇に対する恐怖心が生み出した幻覚なんだと暗示することしか出来なかった。  しかし思いも虚しく影が消えることは無い。左目の縁に残り続けている。しかも段々と俺の方に寄ってきているではないか!  空は一層暗さを増して、顔に当たる大気がべっとり水飴のように重たく感じた。  自転車のチェーンとタイヤが生み出す摩擦の音、そして耳を遮る突風がせめてもの救いだ。五感のひとつが鈍るだけで、ずいぶん気が紛れる。  しかし体力には自信があるのに、ペダルを漕ぐのがもはや拷問に等しい行為だ。漕げば漕ぐほど、前に進めば進むほど、この黒いやつは近づいてくるから。  注意が前方から左に逸れすぎた、突然の眩しさを感じて前方に顔を向けると、交差点に差し掛かるところで右から乗用車がブレーキなしで入ってきた。 「っっっが!!」  考えるより先に手先が反応した。車も自転車も互いに急停止して、衝突寸前のところで事故を回避した。こちらの前輪とヘッドライトが掠っていた。  自転車の後輪が大きく浮いて前のめりに身体が落ちそうになるのを何とか踏ん張る。  ガシャン、通常姿勢に戻ってきて、久しぶりに両足を地面に着けた。 「ばっ、気ぃつけろよ!!」  やや動転した様子の車の運転手が、窓を開けて怒鳴り散らした。対して俺は疲労のせいで怒りはなかった。 「すいません……」  大人しく謝ると車は無視して発進した。  ハイビームの灯りが消えると、再び闇と張り詰めた静寂が舞い戻ってきた。  俺の両膝にどっと痛みと痺れが走った。いつも以上に連続で漕いでいたせいだろう。 ――そうだ、左にいたやつは!  事故未遂の衝撃で忘れていた恐怖を思い出し、左を振り返ってしまった。  そこには、何もいなかった。  車と出会うまで明らかに隣にいた影。いなくなったらなったで不安は拭えない。  でもやっと過剰な恐怖に怯えず帰宅できる、という安心が全身の緊張を解してくれた。  さて、あと少しの道のりを頑張って漕ぎますか。  決意を新たにペダルに足をかけて回した途端、何かが背後で聞こえた。  ……………………ァ  いやな予感がした。もう振り返らない、このまま進む。  けれどその音は次第に大きくなっていく。  ………………ァァァ  限界の近い太ももにムチを打つ。車輪の回転数がみるみる上がる。  …………ァァァアアア  やばいヤバいやばいやばいヤバい追いつかれる!  ……ァァアアアアアアア  一心不乱に動かし続けた全身が、恐怖と混乱と疲労で悲鳴をあげる。  ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛  獣か地鳴りの如き暴力的な声、らしき音が背後で響いた。  絶叫と共に溢れる俺の涙は風で後ろへ流された。  ついに自宅が見えた。  減速を最小限に駐輪場に滑り込みそのまま停車。肺を限界まで潰しながら走ってアパートの俺の部屋の扉まで来た。  鍵を取り出さなきゃいけないのに、こういう時に限ってカバンの中から見つからない!  焦りが募る、 視点も定まらない。  悪循環に囚われ、失せ物を探せられない。 「クソっ!!」  廊下にカバンの中身をぶちまけた。  大量に散らばるスマホや小物や書類たち。  どこかに鍵が、カギがあるはずなんだ! 「えっと、えーっと、え〜」  並のカルタよりも難しい、必死に目を泳がせ何度も往復する。 「あああったッ!」  やっと見つけた。急いで拾って先ずは家の中に――  顔を上げたら、あの黒い影が鼻先10cmの距離にいた。  廊下の明かりに照らされ、この距離で見たから初めてわかった。  真っ黒なお面のような顔らしき部分に吸い込まれそうな白い穴が3つあった。目と口に見えた。体は黒いのではなく、藁で出来た(みの)を来ていた。後で振り返ると、不気味さが強い「なまはげ」の様にも思える。 「メシコロネナムコ?ヒムココテ??エマソヲテケホケ!?ホミテフコマ?テ」  そいつは理解不能な耳馴染みのない言葉で発狂した。  俺は聞いたその場から嘔吐と嗚咽が止まらなくなった。  人は「わからないこと」というだけで本能的な嫌悪感を抱くのだと初めて知った。  何分も耳に注ぎ込まれる言葉のせいでアパートの廊下で吐き続けていたら、隣の住民が異変に気づいて救急車を呼んでくれた。  救急隊員が俺に駆け寄った数秒前に、影だったやつはどこかに去っていた。  救急車に乗せられて病院に運ばれる俺は朦朧とする意識の中で、起きたらとりあえず会社から徒歩で通勤できる家に引っ越すことを決めた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加