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1.打 診
本部から統括マネージャーの滝沢さんがが来ていて店長と事務所で何か話しているのは知っていた。ランチの営業が終わってすぐに事務所に呼ばれ顔を出すと滝沢さんに
「メシ前に悪いな。すぐ済むから」
と何枚かの資料を渡されたので見れば今度出店する予定の新しい店の概要だ。これまでの数十人単位の宴会もできる規模の店ではなく昼はランチ、夜はバル形式の酒を楽しむための小規模な店という計画は俺も聞いてはいた。
「ここをお前に任せるって話が出てる。本部はその方向で計画を進めたいがどうだ?」
どうだ?と聞かれても俺にとってはいきなりな話だった。
「加藤さんか山口さんに行く話だと思ってましたから…」
他店舗の料理長とこの店の副料理長の名前を出すと
「酒を出す店だからな。お前の味の方が向いてるというのが上の見立てだ。オープンは10月になる予定だから考えておくように。今月末には返事寄こせ」
有無を言わせない感じであと一週間もない期限を切られたが、これは断ることは想定されていないのだろう。まあ、実際独り身でしがらみもないこの身軽さも今度の人事の要因かもしれない。新店舗は市内とはいえ車でもここから1時間以上かかる距離だから、まあ、そちらに住むことになってしまうだろう。俺の料理が評価されたらしいことは素直に嬉しいと思う。今の店ではムッシュに合わせるのでかなり洗練された上品な味のレシピに従っているが、俺自身の個性は結構濃いめのパンチの効いた悪く言えば田舎っぽい味になりがちだ。それが居酒屋風の新店のコンセプトに合うと言われ、小なりとはいえ自分にあった店を任されるというのは喜んで受けて当然の話だ。渡された資料を見れば、気取らない感じの落ち着いた店構えで好感が持てる。無意識にどんなメニューが向いているだろうか、バル形式なら品数多く考えなければ、酒のことを相談できるスタッフは付けてもらえるのだろうか、などと考え始めている。店を取り仕切るのは夢だった、とまでは言わないが目標の一つではあった。なのに、俺がこの話を手放しで喜べないのは年の離れた恋人のことを考えたからだ。
現在大学4年生で絶賛就活中の篤也とは付き合い始めて4年目になる。今でも土日休めず夜も遅い俺と学生の篤也ではなかなか一緒に過ごせる時間がない。篤也がアルバイトの日でも一緒に仕事場には居られるが恋人らしい時間が過ごせるわけでもなく、定休日前の閉店後に俺の部屋に篤也が寄って、つかの間の逢瀬を楽しめればいい方である。けれど篤也はたいてい次の朝のことを考えて泊まることもなく名残惜しそうにしてくれながらも帰っていく。メーカーへの就職を希望している彼が無事に希望通りの会社に決まればますます会う時間を作るのは難しくなるだろう。俺は重いものを胸に抱えたまま帰路に着いた。
「じゃあ、10月には向こうに引っ越しちゃうんだ」
焼いた肉を皿にのせている俺の横で茶碗にご飯をよそいながら篤也が小さな声でつぶやく。部屋には俺特製の生姜焼きのいい匂いが充満して、いつもなら好物にテンションが上がっているはずの篤也の元気がなくなっている。4回生になってからやっと水曜日は講義の無い時間割(履修スケジュールというらしい)になったので、今日のように火曜の夜は泊っていけるようになった。今日は俺も交代で取れる週休だったので学校の帰りに直接来て一緒に夕食を作って食べるのだが、食事の前にこの話はまずかったかと後悔した。
「たぶんな。準備もあるから9月かもしれない」
味噌汁をつけながら言うと
「おめでとう。料理長になるんだもんね。今度何かお祝いさせて」
笑顔を向けてくるがこれは本当の祝福半分不満を言っても仕方がないと思っているのが半分の顔だ。
「冷めないうちに食べよう」
食卓に着くと手を合わせてから食べ始める。
「うっま。政樹さんの生姜焼きホントうまいね。どんだけでも食べられる」
本物の笑顔を見せると、がぜん食欲が復活したらしくもりもりと皿の上のものを胃の腑に収めていく。タレにすりおろしたリンゴと玉ねぎが入っている。昼間のうちに肉が柔らかくなるように漬け込んでおいたのでやや厚めの肉も箸で分けられるほどだ。コールスローもマッシュポテトもぺろりと平らげ手を合わせると、空になったスープの皿とともに流しへさげる。篤也が部屋に来るようになって俺の休日の食生活は激変した。これまで休日の食事なんて食べても食べなくてもいいと思ってまともに料理することなどなかったが、篤也のために彼の喜びそうなものを手をかけて作るのは今までにない楽しみになった。結婚していた時でも申し訳ないが嫁のために何か作ろうなどと思ったことはなかった。料理は仕事で、せいぜい誕生日などの記念日でリクエストされた時に特別なサービスをするくらいの気持ちで作ることはあっても、ただ喜ばせるためだけに料理をする、などということができるとは自分で自分に驚いている。俺も食べ終わった食器を持ってキッチンへ行くと
「そこに置いていって?いっしょに洗っちゃうよ」
と促されて言われたとおりにする。まだ出しっぱなしのキムチや水を冷蔵庫に片付けたりテーブルを拭いているうちに洗い物を終えたらしい篤也がテレビのチャンネルを変えてソファに座った。コーヒーを入れて持っていくと
「ありがと」
と受け取るが視線が微妙に合わない。
「俺が向こうに行くと会う時間がもっと減るから寂しい?」
隣に座り篤也の顔を覗き込んで聞くと素直に頷いた。頭を抱えてこめかみに唇を落とし
「俺も寂しい」
と言うと鎖骨に顔を埋めてくる。
「やっぱり新店の近くに住む?」
と聞いてくるので抱きしめる腕に力を込め
「ごめん。多分そうなると思う。断れない話だし俺もこのチャンスはものにしたい。篤也には寂しい思いをさせちゃうことになると思うけど、会える時間をできるだけ作れるように考えるから」
もう一度こめかみにキスをする。篤也は返事をせず何事か考えているようだった。これは別れ話でも出てくるのではないか。ふとよぎったそんな考えにぞくりと体が震えた。20歳の年齢差は俺にとってはいつ発火してもおかしくない火種だ。そもそも男同士で愛し合っていることも、真正のゲイである俺とナチュラルに彼女がいたことがある篤也では対峙の仕方が違うのではないかとの疑いが常につきまとっており、もしこのまま篤也が俺から離れる道を選んだとしても、それを止める術も理由も持たない俺はただ受け入れるしかないのだと頭ではわかっている。それでもこの腕の中の愛おしい存在に執着せずにはいられないのだ。俯き加減の顔を覗き込むように見つめると、瞬きをして見つめ返してくる。出会ってから5年、体格も顔つきも少年らしさはすっかり消えてしっかりとした大人の男のものに成長した。もともと老成した性格だったが俺とつき合うことでさらに大人びた、言い換えれば若者らしくない性格になったように思い、少し申し訳なさにさいなまれる。篤也が顔を近づけてきたので目を閉じてキスを受け止める。お互いの体に腕を回し合い、より密着して唇の柔らかさと絡まる舌の熱さを堪能するとすぐにキスは深く激しいものへと移行し、お互いの荒い息がさらに気持ちを煽っていく。
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