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「京に行く~!?」
恐らく鉄之助にとっては人生初、一生に一度の大声が出たかも知れない。と言っても鉄之助はまだ十四年しか生きていないが、人は予想もしなかった事で驚くと、口が塞がらなくなるものらしい。鉄之助は口を開けたまま固まった。
この日の夕餉は鉄之助の予想通り芋煮鍋となり、囲炉裏では自在鉤に吊された芋煮鍋がグツグツと煮込まれ、ちょうど食べ頃だった。
だがあまりの衝撃に、鉄之助の腹で煩く鳴いていた腹の虫もピタリと止んだ。
「京って、あの京ですか……? 妖怪がうじゃうじゃいるという……」
鉄之助は京の都をまだ見た事も行った事もないが、鉄之助の頭の中では狐狸妖怪が百鬼夜行をしていた。
「いったい、いつの時代の話をしているんだ。お前は……」
辰之助は呆れ顔だが、鉄之助が幼い頃に見せてもらった絵巻物には恐ろしげな妖怪がたくさん出てきた。お陰でその日の鉄之助は眠れなくなるわ、厠に一人では行けなくなるわ、散々だった。
どうやら現在の京に妖怪はいないらしいが、代わりに人間が暴れているらしい。
鉄之助は怖い所には行きたくはないのだが、兄・辰之助は京に行く気である。
「いやだなぁ……、辰兄。いくら俺がぼーとしているからと、そんな冗談……」
「鉄之助――、俺は至ってまじめだ」
混乱する弟を余所に、辰之助は冷静だった。
「でも……、辰兄は確か仕官先を探していませんでしたっけ?」
「その間に、野垂れ死ぬ」
辰之助はそう言って、天井に視線を運んだ。共に鉄之助も視線を運べば、天井に穴が空いており、空が見えた。
早めに修理をしなければ、部屋の中で傘を差さねばならない。
鉄之助が生まれたのは米国艦隊来航の6ヶ月後の安政元年、当時の世は尊皇攘夷の嵐真っ只中だという。
既に二百年以上続いた鎖国体制は崩れ、米国に続き異国船が次々と海を渡って来たらしい。
鉄之助が生まれた美濃大垣(※現・岐阜県大垣市)は、戦国乱世時には戦国武将・斎藤道三と織田信秀(※信長の父)が美濃を巡ってぶつかり、その後は様々な大名家当主が大垣藩主となったという。
市村家は昔から美濃大垣藩主・戸田家に仕え、鉄之助・辰之助の父である市村半右衛門は藩の財政を担当する蔵奉行に就いていた。ところが鉄之助が5歳になったある日、突然父は藩から放逐されてしまった。
大垣藩主と父との間に何があったのか、鉄之助は聞かされてはいない。
その後に父と兄・辰之助と共に親類を頼って近江国・国友村に移り住んだが、その間に美濃大垣藩への帰参の許しはなく、二人の父・半右衛門は亡くなった。
故郷・美濃大垣を離れて10年、武士の子として生まれた兄弟の夢はいつか美濃大垣に帰る事。しかしこのままでは市村家存続の危機と、辰之助は仕官口探しに奔走していた――、と鉄之助は記憶している。
鉄之助は現在の暮らしも満更ではなかったが、そう思えるのは子供のうちだけだと辰之助はいう。
浪人暮らしでも仕官先が運良く見つかる場合や、寺子屋の師匠・内職など職にありつければいいが、その職もなく仕官先も見つからないとなると人は腐るらしい。遂にとんでもない暴挙にでるようだ。
京では一部の者が不逞浪士となり、民家に押し入っては金を毟り取っているという噂である。
これは兄を止めなくてはならない――、鉄之助はそう思った。
「辰兄、鬱憤が溜まるのは理解りますが京まで行って爆発させなくても。向こうの人に迷惑ですよ」
「お前なぁ……、その妙にズレた考えどうにかならんか?」
「違うんですかぁ?」
「違うわ。あほ」
何でも新選組が、新規隊士を募っているという。
「しんせん……、ぐみ?」
鉄之助は首を傾げた。
「会津公配下の新選組ならば、仕官の道も開けると思うのだ」
会津公とは京都守護職にして、会津藩主・松平肥後守容保の事らしい。
「辰兄はいいですけど、俺何もできませんよ? 剣だって使えないし、不器用だし」
鉄之助は元服すらしておらず、失敗をする自信だけはあった。
「俺はその事が気がかりなんだ。お前が何かやらかしそうで怖い」
鉄之助からすれば何かやらかす以前に、門前払いにあいそうな気がした。
「では取りやめって、言う事で」
「京に行けば、お前の好きな甘い物が食えるぞ。鉄之助」
芋煮鍋に延びていた鉄之助の手が、ピタッと止まる。
「……あまい……もの?」
「ああ。凄く美味いそうだ。そうかぁ、行きたくないかぁー。いやぁー、凄く美味いのに残念だなぁー」
大袈裟に残念がる辰之助は頻りに「残念だー」を連呼した。
そう聞かされてしまうと、頭の中には甘い物しか浮かんでこなくなる鉄之助である。
「行く!」
かくして、鉄之助は――。
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