紫陽花の甘露に黒猫の溜息

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 鈍色の雲が垂れ込める空の下。  未だ、空からの雫は落ちて来ない。おそらく、夕刻には降り出すのだろう。  学園の裏庭で奇跡の様に爽やかな色が満ちていた。 「青い……」  穂咲の感嘆の混じった呟きに、隣に立っていた高峰紫苑から密かに安堵の息が零れた。  目の前には梅雨入りを目前に控え、青い紫陽花が見事に咲き誇り、植垣を作っている。  鈍色の雲が広がり、今にも雨を降らせそうな空の下、学園と女学の合併で、今年に入り教員棟の裏庭に植え替えた紫陽花が咲いていると、見つけた紫苑が職員室に着くなり知らせてくれた。  植え替えたその時から、この日を待ち望んでいた。  女学の時はピンクにしか咲かなかった紫陽花を見に、昼休みに入るなり紫苑を連れ、この人気も無い裏庭の片隅へとやって来た。  そうして二人の眼前で、昨年はピンクの花を咲かせていた紫陽花は今年、見事に青い花を咲かせている。  元々は学生時代の穂咲と、その親友だった紫苑の従兄弟である(かなう)が、紫苑の実家に咲いていた青い紫陽花を株分けし、若気の至りでこの学園の裏庭に植えたのが始まりだった。 「穂咲は本当に、青い紫陽花が好きだな」 「うん、好きだよ。青い紫陽花は紫苑だからね」  (てら)いも無く言ってのけた穂咲に、紫苑はギョッと振り向いた。  その美しい顔が自分に向けられる時にだけ、崩れる瞬間が堪らなく愛しい。 「ふふ、頬が赤いよ。紫苑」  悪戯が成功したような顔で笑んでいる自覚はある。  ただ一言、「傍に居て」でも。ただ手を伸ばして、掴んでくれるだけでも良かった。 『手か、口で……スルか?』  傍に居る理由の代わりの様な、あの提案よりは、ずっと良い。  
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