夜明け

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 夜というのは、何時から何時までの事を言うのだろう。  そんなことを考えながら、私は暗い道を歩いていた。  親が寝た後に家を出て、コンビニに寄ってホットミルクティーを買ったあたりから、ずっと考えている。  夜道を歩くのはこわくなかった。元々私は夜勤の仕事をしていて、家を出るのは夜だったから。  暗くて、誰もいない夜の道は、空気が澄んでいて好きだった。  けれど、いつからか、私にとっての夜は、途方もない闇と重苦しくい空気の恐ろしいものに変わっていた。  不思議なものだと思う。同じ夜なのに、気持ち一つでこんなにも変わってしまう。  今私は、仕事へ行くのとは逆方向の道をひたすらに歩いている。  季節はそろそろ冬へと向かう。吐き出す息も白い。  もう少し厚着してくればよかったかな。  残りのホットミルクティーを飲み干すと、白い吐息はより濃さを増した。  私はどこへ行きたいんだろう。  このまま歩き続けていれば、朝が来ないように思えた。  けど、そんなことはありえなくて、時間は進むし、そのうちに空は明るくなって、太陽が顔を出す。  どれだけ濃い夜を感じていても、それは変わらない。  長い坂にさしかかる。ここを上ると、駅へと続く道へ出る。  一歩一歩坂を上っていると、いろんなことが頭の中で巡りまわる。  なんてことない学生生活を終え、なんてことない仕事に就いた。  私の日々はいつでもなんてことのないもので、きっとこれからもずっと、なんてことない人生が続くんだろなと思っていた。  けど、私が思っている以上に、社会というのは厳しかった。窮屈に思えていた学生生活は、今にして思えば自由だったんだなと思う。  働き始めて、その「速度」に追いつくのに必死だった。  やることには終わりがない。何かを終えれば、すぐにまた次、次と動くことになる。  もう少し自分はできると思っていたけれど、私はいつもその速度に振り落とされていた。  追いつこうと必死になればミスが出る。  ミスの無いようにと確認をしながらやると、追いつけなくなる。 「あなたが入ると何かしらミスが出るよね。気を付けて」 「そこだけで終わっちゃうんじゃ駄目だよ。みんな大変なんだから」  上司の怒声が耳の奥で響く。  当然の怒りだとは思う。けれど、あの呆れたような顔と声は、私の心をかき乱し続けている。  嫌だな。  そう感じ始めてからも、なんとか仕事を続けた。  環境を変えようともせず、改善をしようともしない自分への嫌気はあった。甘えなんだろうとも思う。  けれど、嫌だなという気持ちはどんどん大きくなって、そのうちに夜が怖くなった。  弱い人間だというのは自覚している。寝る前に泣きそうになりながら、そんな自分を呪うけれど、結局変化なく私は割り当てられた仕事を必死にこなす。  少しでも変わりたかった。いや、大きく変わることはできなくても、少しでも、一日だけでもいいから、変化が欲しい。  そして、今日。体調が良くないと連絡をし、私は初めてズル休みをした。  この道は、出かける時にはよく通る道だ。でも、何故だか今は、知らない道のように感じた。  坂を上り終え、息を整える。  振り返ると、仕事へ向かう道が見えた。  少しだけその道を見つめた後、私はまた歩き出す。  目的地を決めてはいなかった。けれど、ここまで来たなら、駅を目指して歩こうと決めた。  まっすぐ続く道。この街はまっすぐな道が多い。  ひたすら歩いていく。  時計を見ると、ちょうど仕事が始まる時間だった。  心の中で罪悪感が顔を出す。  それを振りはらうように、私は少しだけ歩く速度をあげた。  駅前は、他の所よりも人が多かった。  まだ電車は動いていないけれど、シャッターの前で改札へ続く道が開かれるのを待っている人も何人かいた。  このまま、電車に乗ってどこか遠くへ行ってしまおうか。  いつも帰宅する時間帯に、きちんと帰るつもりだった。  明日からはいつも通りの日常に戻る気だった。  でも、戻ったところで、またあのもやもやを抱えて生きていかなければならない。それなら、このままどこかへ……。  自分にそんなことができる度胸がないことくらいわかっている。それでも、思ってしまう。  今夜も、少しでも変化が生まれれば、大きな変化のきっかけが見つかるのではないかと考えていた。  けれど、ただ時間は過ぎる。いつものように。いや、むしろ、いつもよりも早く。  その場に膝を抱え込むようにして座り込み、顔をうずめる。  疲れた。なんでこんなことをしてしまったのだろう。無駄に体力を使っただけだ。  疲れた。  まあ、いいや。このままここで時間をつぶして、バスで帰ろう。 「ちょっと」  唐突だった。唐突すぎて、真上から聞こえたその声が自分に向けられたものだということに気が付かなかった。 「ちょっと、あなた」  顔をあげる。 「ああ、生きてた」  そこには、女性がいた。私のことを見下ろす、綺麗な顔。 「酔っ払いってわけでもないか。なんだか暗ーい空気纏ってたからさ、心配になっちゃってね」  女性はそう言って笑った。明るい笑顔だった。 「すいません」 「いやいや。私が勝手に声かけただけだから。ごめんね」  急に、涙が込み上げてきた。なんとか抑えようと、唇を噛む。 「どうしたの? 大丈夫?」  その声があまりにも優しくて、私は涙を抑えることができなくなった。 「ちょ、ちょっと。本当に大丈夫?」 「すいません……すいません」  涙は止まらない。声をあげて泣くなんて、ずいぶん久しぶりだなと、心の中で冷静につぶやく自分がいて、それが不思議だった。  女性が隣に座り、私の背中をさすってくれた。 「大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて、ね?」  どれくらい泣いていたんだろう。その間、ずっと女性は私の背中をさすってくれていた。 「落ち着いた?」  泣き止んだ私に、女性は声をかける。 「はい。すいません」 「謝ってばっかだね、君」  女性の声は少し低くて、優しい響きを持っていた。 「何かあった?」  女性が問う。 「たいしたことじゃないんです」 「誰かにとってそうでも、あなたにとってはたいしたことなんでしょ?」 「でも、そんなこと言ってられないです。私はもう大人ですから」 「子どもも大人も関係ないでしょ。いくつになっても悩みは悩み。大きいとか小さいとか、それを決めるのは誰かじゃなくて自分」  女性は伸びをしながらそう言った。 「だからまあ、本当の意味での解決策なんて、相談だけでどうこうなるもんでもないってことなんだけどね。実際にその人の環境を変えるには、その人の人生に割り込む覚悟がいる。でも、話すだけでも少し楽になるってこともあると思いもする……ような?」  なぜか最後が疑問形になる。それがおかしくて、私は笑ってしまった。  女性も少し恥ずかしそうに笑う。 「私、駄目な人間なんです」 「駄目?」 「はい。何をやっても駄目なんですよ」 「例えば?」 「仕事とか」 「他には?」 「他?」 「だってさ、仕事だけじゃないでしょ? 人生」 「そうなんですか?」 「そりゃあ、生きてくにはお金が必要だし、それはつまり働くってこととイコールだけど、それだけじゃないんじゃない?」  女性はじっと私を見つめて言った。まっすぐ目を見つめてくるのが恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまう。 「いきなり変わるのなんて無理でしょ。そりゃ、改善しなくちゃいけないこともあるだろうし、我慢しなくちゃいけないこともあるだろうけど、嫌だと思うことも正当化することはないんじゃない? 嫌なものは嫌でいいと思うよ。嫌いな上司がいるなら、心の中でぶん殴ればいいんだよ」 「ええ……」 「引いてる?」 「いや、別に、そんなことは」 「真面目だなぁ。正しいこと言ってるからって、反発しちゃいけないなんてことはないでしょ。実際に行動で反発してるわけじゃないんだから。心の中では何をしたっていい」 「そういうものなんでしょうか」 「そういうものなんじゃない。たぶん」 「たぶん?」 「たぶん」  私たちは笑い合う。不思議な気分だった。こんな時間に、こんな風に初めて会った人と話して、笑い合ってる。 「で、色々悩んで、今ここにいると」 「はい」 「初めてのズル休みをして」 「……はい」 「なるほどね。ズル休みしたんなら、あれこれ考えずに休みを満喫すればいいのにって言っても、真面目な君はそうもいかないないのかもね」  シャッターが開く。電車が動き始める時間になったらしい。  それに合わせるように、女性は立ち上がる。電車に乗るのだろう。 「ありがとうございました」 「なにが?」 「お話に付き合ってくれて」 「いや、勝手に声かけたの私のほうだし。それに、君が良ければ、もう少しお話したいなって思ってたんだけど」  女性は車のキーを私に見せる。 「少し付き合わない?」 「付き合う?」 「そう。早朝のドライブ」  私はてっきり飲みの帰りだと思っていたのだけど、どうやら女性は仕事帰りだったらしい。夜通しで仕事を片付けていたという。 「やりたいことやってるからね。きついし、なんでこんな仕事選んだんだろうって悔やむこともしょっちゅうだけど、やり終えると、私にはこれしかないのかもなんてこと考えちゃうんだよね」  そう語りながら歩く女性の姿は、なんだかとても輝いて見えた。  時間的には早朝になるのだろうが、まだ空は暗いままで、夜の空気が残っている。  太陽がのぼった時が、夜の終わりなんだろうか。  夜というのは、何時から何時までの事を言うのだろう。そんなことを考えていたことを思い出す。  駐車場に着き、女性は自分の車のロックをあけた。  大きな車だった。 「どう? 付き合ってくれる?」  運転席のドアをあけ、女性が言う。  私が頷くと、女性は助手席にまわり、ドアをあけてくれた。  二人で並んで座り、女性はエンジンをかける。重い音が響いて、車は走り出す。 「どこに行きたい?」  女性が問う。 「え?」 「君が行きたいところに行こう」 「私が、行きたいところ」 「そう。どこだっていいよ。遊園地だとか、ショッピングモールだとか。施設が開くまでどこかで時間を潰せばいいし。もっと遠い所でもいいよ。北海道とか沖縄とか」 「どうしてですか?」 「どこか遠くへ行きたいと思ってたんでしょう?」  遠く。どこか、遠くへ。 「私のことは気にしなくていいよ。仕事も片づけたし、何日か休むくらいどうってことないから」 「けど、親とか、職場が」 「連絡すればいい。少し家出しますって」 「でも、あなたに迷惑が」 「構わない。これも縁だし。それにさ、なんかドキドキするじゃない。逃避行ってさ。付き合うよ、共犯者として」  本気だというのは、声と表情でわかる気がした。  どこかへ行ける。どこか、ここを離れた遠くへ。 「じゃあ、いいですか?」 「うん。どこへ行く?」  目的地へはすぐに到着した。 「ここでいいの?」 「はい」  坂の上から仕事へと向かう道を見つめながら、私は答えた。  うっすらと空が青くなってくる。それでもまだ夜明けというほどではない。けれど、その半端な青さは、今の私にはちょうどいいように思えた。 「今はここでいいです。いつか、もう少し自分の意思で遠くへ行きたいと思ったら、もっと先まで歩いてみようと思います」  この坂を下って、家へ帰れば、元の日常へと戻る。  暗い気持ちが消えたわけではないけれど、少しだけ、変われたようにも思える。いや、変わったというのとは少し違うのかもしれない。  私は、話を聞いてほしかったのだろう。  弱いだとか、甘えだとか言っているけれど、私は、きっとそんな自分の弱さや甘えを、悪いものだとは思っていなかった。  それが自分だ。いきなり変われるものかと。  どうしようもない。何かを持っているわけでもないのに、望みだけ大きくて、文句ばかりで。  けど、そんなものなんだ。自分なんて、そんなもの。そんな人間でもいい。だって、それが私なんだから。 「また会えますか?」  私は、女性に問う。 「いいよ」  女性は即答し、私たちは連絡先を交換した。 「心の中で苦手な人をぶっ飛ばせるようになったら、どこかへ連れて行ってもらえますか?」 「喜んで。真面目な所は魅力でもあるけど、もう少し自分に甘くなってもいいと思うよ。気はいくらでも抜いていい。気を抜いて、でも手は抜かない。それが理想かもね。まあ、私もできてないんだけどさ」  私は、女性の近くにより、手を伸ばす。 「ありがとうございました」  女性は少し恥ずかしそうに、私の手を握る。 「何もしてないよ」 「話を聞いてくれました」  握手をしながら、私たちは笑い合う。  どこからどこまでを夜というのだろう。  私は歩きながら、そんなことを考えていた。  人にとっての夜は、気持ちに左右されるのかもしれない。  時間が過ぎて、夜明けが来ても、心が晴れるわけではない。  けれど、そんな不変の時間の中で、なにかしらのきっかけがあれば、心にも夜明けが来るのかもしれない。  少なくとも、今私の心には、少しだけ日の光が差している。 「夜明けだ」  女性が言う。  日が昇り始めていた。 「送っていこうか?」 「いえ、大丈夫です。自分で歩いて帰ります」 「そう」 「……じゃあ、また」 「また」  握っていた手を離し、私は背を向け歩き始める。  今は振り返るのはよそう。  坂の中頃まできた時、後ろの方から車が走り去る音が聞こえた。  空を仰ぎ、大きく息を吸う。  朝の光が、嫌になるくらい眩しかった。
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