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 ミツコは、笑顔で老指揮者を出迎えた。   「ありがとう、来てくれたのね。元気そう嬉しいわ」 「君も元気そうだ。一時は心配したけれど、大丈夫そうだね」 「ええ、何とか娘たちのおかげで。あなたの活躍も励みにしていたわよ。それでね、ピアノを弾く気力を取り戻して、また練習しているの」  病気のことをたずねると、新薬が効いて痛みから解放されたことを、ごく簡単に彼女は述べた。それよりも熱心に語ったのは、十八番だったレパートリーを再度弾くための涙ぐましい努力についてだ。 「それは、良いことだ。ぜひ聴かせてほしいな」 「指がうまく回るかどうか。でも、調子が良く弾けるとね、とても心が満たされるわ。そんな演奏をあなたに聴かせられたら良いのだけど」  若いころの情熱は消えていないどころか、さらに燃え盛るようだ。イアンは驚きと嬉しさに満ちた。このような日が来るとは、誰が想像できただろう。  ミツコの家政婦が用意した昼食をふたりはゆっくりと取った。懐かしい話をしながら。それから、グランドピアノのある部屋に移った。 「まずあなたが、いつものモーツァルトを弾いてね。きっと呼び水になって調子が上がると思うから」  イアンは、モーツァルトの十二番目のソナタを弾いた。私的な集まりではじめてふたりが話をしたとき、一同にミツコが弾いて聴かせた思い出の曲。  緩やかにはじまり月と太陽が流転し、影が光と対話する。第二楽章、じゅうたんを移る猫の足音のような。彼女の心に温かな想いが広がった。  最終楽章は部屋いっぱいに花々があふれるほどに。花びらが鮮やかに舞い、彼女を包む。   曲が終わると、イアンは立ち上がり少しおどけるようにおじぎをした。  彼は楽しそうに言った。
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