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「マエストロ、一番心に残るコンサートはどれですか? 特別心に残るものは?」   オーケストラ団員の去った練習室でインタビューが行われている。老指揮者イアン・バルギールはすぐに的確に答えるつもりが、言葉に詰まった。  この記者の「特別な」という言葉が浮き上がって聴こえ、ミツコ・キム・モーザーのことを思い出したからだ。自然にほおが緩む。 「それは……。短い時間だったが、素晴らしいピアノを聴いたよ。うまく言えないが、最上だった。あれは、今の私の心の支えだ」   ミツコが自室でピアノを弾く姿が、イアンの心に浮かぶ。聞き手は、しわの刻まれた彼の顔をいぶかしげに見つめた。記者が求めているのは、老マエストロが指揮をしたコンサートを訊ねたつもりだった。しかし、すぐに記者の頬はゆるんだ。 「それはもしや、先ごろ亡くなった、女性ピアニストのことですか」  彼は言葉をしばし失った。  「失礼。少し席を外すよ。すぐ戻る」  イアン・バルギールは一瞬笑みを浮かべ、記者にタバコを吸う仕草をして席を立った。そして、この建物の上階にある、街を一望できる喫茶室に向かった。  ゴシップに鼻が利く女性記者に、余計なことを言ってしまった。若い頃は大スキャンダルになりかねない経験をしている。あの時代は、弱い立場の女性を黙らせるのは簡単だった。 自分は何を書かれようが今更だが、ミツコと彼女の家族の名誉を傷つけるようなことは一語でも書かせてなるものか。そのためにも、体中に駆け巡る感情をどうにか鎮めねば。  彼は、いつもの席にどっかりと腰を下ろし、二年ほど前の、秋はじめの暑さが残る季節に時を戻していた。
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