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 半世紀にわたりピアニストとして活躍した、ミツコ・キム・モーザーのボストン郊外の自宅が眼前に浮かぶ。同郷の彼女のことは、当然デビュー前から知ってはいた。  しかし、親しく言葉を交わすようになるまで長い時間を要した。やがて、それぞれ才能を開花し、いつしか一流の舞台で指揮者とソリストとして共演するようになった。また彼が采配をふるうシリーズや音楽祭、各種メディアに彼女はスケジュールの許す限り出演を快諾する間柄だった。  世間的には、音楽上の比類なきパートナーと目されたこともあり、男女の仲ではないかと疑う向きもあった。彼女に限らず優れた才能を持つ女性と噂になるのは、彼のほうは悪い気はしなかった。しないどころか、恋愛とも肉欲ともつかないものに溺れたこともあった。  ただ、ミツコは別だ。自分でも説明のつかない感情がずっと潜んでいた。  長い黒髪に大きな瞳のミツコは、舞台映えした。その容姿の印象は演奏のそれがやすやすと凌駕したので、当然ながら多くのファンを獲得した。とくにシューベルト、シューマン弾きとしての評価は高く、伝説的な演奏を残している。  その中には、指揮イアン・バルギール、独奏ミツコ・キム・モーザーのピアノ協奏曲もあった。若かりし頃を懐かしみ、一緒に過去をたどれる得難い存在でもあった。  元ピアニストは、引退し教職を辞してからも、日々の練習を欠かさず、親しい人を招いてのサロンコンサートを続けていた。そんな彼女が、末梢神経の病気のために鍵盤に触れられなくなり、心を沈ませていた時期があった。彼は老いを受け入れるしかないと、案じるからこそ考えた。もうあがくのも疲れるだろうから。  しかし、音楽に尽くしてきた彼女に、神は再び希望をもたらしたのである。イアンは、最後の訪問を振り返った。
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