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 世界最高峰の指揮者であり続けたイアン。さらに作曲や編曲の仕事にも意欲を燃やし評価もされたので、仕事の面では後悔はない。その間に再婚と離婚を繰り返し、結局ひとりになった。  一方、演奏活動と家庭生活をバランスよく両立させ、数年前夫を送ったミツコ。  イアンはおどけて言った。 「今からでも、間に合うよ」 「そうね、考えてみようかしら」  彼女も笑って答えた。   「じゃ、私も弾いてみるわ」  ミツコはゆっくり立ち上がった。ピアノに向かう真摯な横顔は、変わらない。根っからのピアニストであり、ピアノとともに人生を歩んできた誇りがそうさせるのだろう。  バッハの平均律クラヴィーア曲集第2巻のフーガのみを、ハ長調から順に弾いた。子どもの頃から毎日の練習のはじめは必ずこの曲集だ。指はときどき思うに任せないようだったが、かえってミツコのひたむきさがにじみ出ていた。  ブラームスの作品118より間奏曲イ長調 アンダンテ《歩く速さで》・テネラメンテ《愛情深く》。  ミツコはイアンのためだけに弾いている。いつも人に囲まれているふたりには、まれなことだ。  ピアノの音はこのうえなく温かく優しく彼の耳に届く。  いっとき仲たがいしたこともあったが、老境に達した今過ぎた日々は黄金の輝きを放っている。音楽を通してこそ響き合う人生だった。  これで良かったのだ。彼の目は涙で潤んだ。  ピアノを弾き終えたミツコは、少女のような純朴な顔をしていた。頬は上気し、瞳は輝いていた。安堵の深いため息。彼はピアノの傍らに立ち、彼女の肩に手を置いた。ふたりはしばらくお互いを見つめ合っていた。  彼女の訃報が届いたのは、それから半年後のことだった。
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