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吉原は、浅草界隈から北へ少し進んだ場所にある。今夜の行き先は、とりあえず最寄りの公娼街であるここに決めた。
この場所も、空襲で多くが焼けてしまったようだ。しかし、小規模ながらも営業は再開されていて、区域内はそこそこの賑わいをみせていた。
客引きの口上に耳を傾ける。
喫茶室や風呂屋を装った風俗店の様子を、遠巻きに眺めてみる。
そうやって品定めをしながら、辰治は散歩を続けた。だが、色街に足を踏み入れてみても、血が躍るような気持ちは少しも湧いてこない。
八重子の顔が脳裏にちらついた。客を引く女の顔を見る度に、気が滅入った。
八重子との恋は、もう過ぎたこと。割り切らなければならない――解っているのに、どうしようもなく引きずっている。そんな自分に気付かされて、情けない気持ちにもなる。
結局その気になれないまま、辰治は吉原の街を離れた。
吉原を出たあとは、屋台で酒を引っ掛けながら、また気の向くままに歩き続けた。辺りはすっかり夜の闇に包まれている。いつしか足は、上野方面へと向かっていた。
暗くなってくると、街中で立ちんぼをしている私娼の数が、ぐっと増える。活気があるせいか、駅に近い場所では特に多いようだ。辰治も何度か誘いを受けた。やはり、その気にはなれず終いだったが。
(……このまま散歩を続けていても、疲れるだけだな)
そろそろ吉松組に帰ろうか――そう考えていた時のことだった。
薄暗く、人気の少ない裏路地。その向こう側から、一人の男が歩いてくる。
「お兄さん、遊んでいきませんか?」
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