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男は笑っていたが、その声は悲哀の色を帯びている。
思わず辰治は沈黙した。
生活に窮し、飯を食うために、こんな風に体を張っている復員兵もいるのだ。そのことを知って、自分の贅沢な身の上を恥じるような気持ちになっていた。
そんなバツの悪い空気を感じ取ったのか、男は気を取り直すように表情を明るくした。
「あなたは、これからお帰りで?」
「いや、色街にでも……と思ったんだが、どうもその気になれなくてね。ただぶらぶらと散歩していたところだ」
あごを掻きながら、辰治はぼやくように答えた。
すると、男はなにか思いついたような顔をした。その距離が、また一歩近づく。
「そう……じゃあ、気晴らしに男でも買ってみるのはどうですか? 安くしときますよ」
男はそう言って、上目遣いに辰治を誘った。
薄暗い路地にいるとはいえ、間近で見る瞳は、底の見えない淵のように黒い。引き込まれるような不思議な闇が、そこにある。
思わず、ごくりと喉を鳴らした。
男の手はいつの間にか、辰治の指先を握っている。ごつごつとした、男の指――
辰治はこれまで、男と寝たことは一度もない。自分がそういう経験をすると、想像したことさえない。全てが未知の領域だった。
それなのに、こんな風に触れられても、その手を振り払う気にはなれずにいる。この男となら――そんな風に考え出す自分を、案外冷静に見つめている自分もいる。
「……」
辰治はまた、沈黙していた。
男はその無言の中に、辰治の答えを見つけたようだ。ニッコリと妖艶に微笑むと、辰治の手を引いて、上野の闇の中を歩き出した。
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