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辺りをゆっくりと見回す。街は人に溢れ、活気に満ちている。しかし改めてよく観察してみると、駅の周辺は浮浪者だらけだ。やせ細り、ぐったりとしている者。身を寄せ合っている子供達。ぼろぼろの軍服をまとい物乞いをしている復員兵――
戦争の爪痕は深い。
和歌山からの移動中に、『東京も空襲でひどい有様だ』という話は小耳に挟んでいた。特に下町はどこもかしこも焼けてしまい、その被害の規模は、上野や浅草から東京湾が見渡せるほどだと聞いた。
そんな中、あの男はなぜ自分に声をかけたのだろう――辰治は不思議に思った。食い詰めている者たちは山ほどいる。それなのに、どうして目眩を起こした辰治の前で、足を止めてくれたのか。
(もしかするとあの人も、命からがら日本に帰ってきた復員兵の一人で、俺の姿にいつかの自分の姿を重ねたのかもしれねえな)
そんな想像を巡らせてみたが、明確な理由を求めるのは野暮という気もした。
同情でも、ただの気紛れの親切でもいい。
辰治の胸には、ジンと熱いものがこみ上げていた。疲れ果てた心に人の優しさが沁みて、たまらなかった。
こんもりと盛り上がったポケットの中に手を入れる。
スモモを一つ取り出すと、その表皮に鼻先を近づけた。爽やかな香りが、空腹で敏感になった鼻孔をくすぐる。薄く粉をふいた皮を、指でなぞりながら、まるで、血色の良い唇のようだと思った。
辰治はスモモに歯を立て、思い切りかぶりついた。
口の中で甘酸っぱい果汁が弾ける。広がる芳香、みずみずしい果肉――胃の腑にゆっくりと落ちていく。
辰治はまた、雑踏の中に視線を送った。スモモの爽やかな味に満たされながら、先程の美しい男の顔を思い出していた。
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