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 ナースコールが鳴ったのは、時計の針は二十三時を回った頃だった。部屋番号は三○四号。  和幸の部屋だった。  美穂は消灯後の廊下を、懐中電灯を片手にゆっくりと歩を進める。  ――チャンスかもしれない。咄嗟に美穂はそう思っていた。今なら殺せる。当直の相方は仮眠室に入ったばかりでしばらくは出てこない。凶器はある。注射器と大量の睡眠薬。睡眠薬は細かく砕き、ぬるま湯に溶いて液体にしてある。  明日の朝には死体となった夫の姿を自分自身が発見し、院長に報告し、医療ミスの可能性を示唆してやればいい。そうすればあの事なかれ主義の院長は恐れおののいて、ろくに検査もせずに適当に死亡診断を下して終わり。訴えるような遺族はいない。何しろ、遺族は私自身なのだから。  後は荼毘に付してしまえばもう証拠は残らない。注射器はダストボックスに放り込んでおけば、明日一番で業者が回収して処理してくれる。  計画は完璧だ。  美穂は白衣の上から羽織った、紺のカーデガンの右ポケットの中に、間違いなく注射器があることを確認した。中身は、厚生労働省が先日、危険薬物に認定したばかりの強力な睡眠薬。各病院に破棄命令が出されていたが、この病院にそれほど迅速な対応能力はなく、残っていたものだった。それもまた、この病院の弱みだった。  美穂は慎重に三○四号のドアを開けた。  蛍光灯がついていた。夫はベッドの上に身体を起こしており、こちらにわざとらしくニコリと微笑みかけた。 「きみが担当だとは」と和幸は言った。「偶然って面白いな」 「そうね」と美穂が言う。懐中電灯を消し、カーデガンのポケットから手を抜いた。万が一に備えて左ポケットには医療用のメスが入っている。 「何かあったの?」  美穂は尋ねた。和幸は屈託なく笑い、 「眠れないんだ。昼間に寝過ぎた――そうそう、今日、刑事が来たよ。きみのお父さんの件で」  よくもぬけぬけと言えるものだ。怒りがふつふつと沸いていたのを実感しながら、美穂は尋ねた。 「それで?」 「ああ。犯人の目星はついているが、証拠がなくて逮捕出来ないらしい」 「犯人って誰なの?」 「いや、そこまでは聞いていない」  和幸は言い、ベッドの横の棚の上の箱に手を伸ばした。「刑事が気を利かしてね、お見舞いにプリンを持ってきたんだが、きみが食べてくれよ」 「甘いもの、嫌いだものね」  美穂はうわべだけの返答をする。  何を考えているのか理解に苦しんだ。わざわざ、刑事が持ってきたプリンを食べさせるために自分を呼んだのか。どう考えても阿呆だとしか言いようがなく、そんな非常識な夫に無償に腹が立ち、一寸、もうメスを首筋に当てて引いてやろうかと思ったが、それは自分を破滅させることだと考えて思い留まった。 「ありがとう、頂くわ」美穂は精一杯の笑顔を作り、和幸から箱を受け取る。  その時だった。  病室のドアが激しく開き―― 「薬はね、用法容量を守って正しく使わなきゃダメなのよ!」  凛とした声が響いた。
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