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 この男を殺すと心に決めたのは一昨日のことだったが、その翌日――即ち昨日、自分に運が回ってきていることを実感した。憎き夫を撥ねた車には、感謝の意を表したい。福原美穂は歓喜のあまり身震いしたあの快感を、今でも鮮明に覚えていた。足の骨を折った夫が、事故現場が近かったがために美穂の勤める病院に運び込まれたのだ。これは幸運以外の何物でもない。  この病院は今、大いに揺れていた。  先日、手術中に亡くなった患者の遺族が、医療ミスで病院を告訴したのだった。実際に医療ミスがあったかどうかは、担当外の美穂には解らない。  しかし、このタイミングだからこそ、医療ミスに見せかけて夫を殺せば、これ以上の厄介ごとを抱えたくない病院自体が、その死の真実を隠蔽しようと工作してくれるはずだ。 殺人だということが発覚しなければ、自分が捕まることはない。  夫ーー福原和幸は静かに眠っていた。車三台の衝突事故に巻き込まれたことによる、左半身の複雑骨折。絶対安静の状態だった。  ある種の拘束状態での入院となったおかげで、一層殺しやすくなったし、点滴を利用すれば、投薬中の栄養剤を劇薬と入れ替えるという単純作業だけで、容易く殺すことができる。  病院側がそれに気づいたとしても、殺人だと証明されない限りは単なる医療事故。事故やミスの続発は、病院のイメージダウンに直結する。SNSを通じて悪い評判がすぐに広まり、医療ミスへのバッシングが盛んな社会の状況ですら、今は彼女の味方だった。  美穂は点滴の残量を確認し、巡回記録に《異常なし》と記入する。  自分の勤務時間終了まで、あと六時間程ある。それまでに薬を手に入れ、夜勤帯の交換分とすり替えれば、あとは夜勤担当者が夫を死に導いてくれる。明日の夜にはお通夜だと冷静に考えて、美穂は夫に背を向けた。  どうしても赦せない。必ず、殺す。  保険金を目当てに、私の父を刺し殺したあの男を、赦すわけにはいかない。  とにかく美穂は興奮して荒くなっていた息を周りに悟られないように整えた。大丈夫。必ず成功する。  汗ばんだ掌を白衣で拭い、巡回記録を記入するバインダーを抱えなおすと、目の前の軽くドアをノックし、「失礼します」と声をかけて病室に入った。 「正木さん、お加減いかがですか?」  反射条件のように自分の口から出た言葉で、この部屋の患者が正木芽衣という女性だったことを思い出す。確かこの患者は、足の靱帯損傷で先程入院してきたばかりだった。普段であればギブス固定と松葉杖で退院というケースだったが、大事をとっての検査入院となっていた。 「痛いです」  正木芽衣は泣き笑いのような表情で言った。ベッドの上で上半身だけを起こしている。その表情には、どこか人に媚びているような感じがして、美穂は不快感を覚えた。若いというだけでちやほやされる年頃だろう。その上、綺麗なロングの黒髪に優等生のような眼鏡。男がかばいたくなるタイプに違いない。  美穂は記録用紙に《異常なし》と書き込んで、顔をあげる。  一瞬、心を掴まれたかのような居心地の悪さを感じた。本当に、ほんの一瞬。芽衣が無表情に見えたのだが、今はまたさっきの媚びた泣き笑いのような表情に戻っていた。    市役所に勤めていた父のことを考えた。父の帰宅の時間はほとんど一定だったが、あの日だけは違った。あの日、父が友人と会って、遅くに帰ってくることを知っていたのは和幸だけだ。間違いない、帰宅が遅くなった父を待ち伏せして、和幸が殺したのだ。通り魔の犯行に見せかけて、刺し殺したのだ。  指先に冷たい触感を覚えて我に返ると、その目の前に、花瓶に水を注ぐ自分自身の姿があった。放心していた隙に花瓶の容積を超過した水道水が溢れ、自分の手と白衣の袖を濡らしていた。そうだ、私、ナースステーションの花瓶の水を変えに来たんだった。  美穂は水道を止めて余分な水を捨て、一旦花瓶から抜いていた花束をもとに戻す。ナースステーションで見たときは鮮やかに見えていたが、いざ改めて眺めてみると、どの花もどこかしら色がくすんで見える。美穂は花瓶を抱えて御手洗いを出た。くすんだ色の花束に魅力はなく、それを抱えることが億劫だった。  廊下に出てふとと立ち尽くす。今、同じフロアに和幸がいるのだ。今夜、自分が殺す相手がいるのだ――そう思うと、身震いを抑え切れなかった。  ただ、全て思い通りには行かないものだ。  栄養剤とすり替える薬を探しに、午後一番に薬剤室に向かったが、今日に限って薬剤師の研修が行われており、普段静かなその部屋は人で溢れんばかりになっていた。  研修が終わるのを待つしかなく、通常業務に精を出していたが、ようやく研修の終わる時間になって、今度は車四台の玉突き事故による救急外来の対応に追われ、夫の殺人計画そのものを一時、思考の外に放り出さなければならなくなった。その瞬間に、夫の命を奪おうとしている者が今、他人の命を救おうとしている事実に思わず自嘲する。  それが落ち着いたのは二十時過ぎだった。勤務時間はとっくに終わっていた。ナースステーションの椅子の一つに腰を下ろし、後輩から差し出されたコーヒーを啜りながら、疲労を詰め込んだ思考の片隅で、すでに他の担当看護師が夫の点滴を取り替えているだろうと考えて、一瞬気が滅入った。出鼻を挫かれたような思いだった。  そして更に気が滅入ったのは勤務表を見たときで、今夜当直のはずの若い看護師の名前がいつの間にか自分の名前にすり替わっていた。近くにいた同僚に尋ねるとどうやら実家で不幸があったらしく、さっさと弔辞休暇の届けを記入して早退したという。ちょうどナースステーションに戻ってきた看護師長に、交代の打診は受けてませんと申告したが、先日父親の弔辞休暇であの子に代わってもらったでしょうと諭されると、帰りたいとは言えなくなった。そこでもう一度、冷静に考え直し、どうせ帰宅したところで何もしないのだと思い、了承した。そうだ、夜の方が警備も手薄だ。やはりツイてるんじゃないかと内心で笑い、先に仮眠をとってきますと当直の相方に告げるが早いか、笑いをかみ殺して仮眠室に入った。
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