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「そんなに畏まらなくていいけど」
くすくすと笑いまじりの柔らかい声に、おそるおそる顔を上げると、彼女はほんのり微笑を浮かべていた。
――すごく綺麗な人だ。
反射的に思って、それまでとは別の意味で緊張を覚えた。
「あのっ、ありがとうございますっ」
真っ直ぐ差し出された紙をぎこちない動きで受け取ろうとしたとき、彼女の口から「あ」と小さな声がこぼれた。
「ここ、提出する前に直したほうがいいよ」
「えっ?」
細い指が示す部分に急いで視線を走らせる。間違いはすぐに分かった。
「もう、平成じゃないから」
「ですね……」
日付の元号を変えるのを失念していたのだ。
「過去のデータを流用すると、中身だけ書き換えて周りの細かいところを見落としがちだから、気をつけてね」
「……はい」
初歩的な指導をされて恥じ入る僕に「頑張って」と優しく声をかけ、彼女は行ってしまった。
偶然拾っただけの書類をわざわざチェックしてくれたのは、僕が新入社員だと把握していたからだと、自席に戻ってから気がついた。名前もきちんと覚えられていた。
うちの会社はそこそこの規模があり、新入社員だって毎年五十人はくだらない。関わりのない人間まで顔と名前を一致させるのは結構な苦労だ。
彼女が律儀だから? それとも他に理由があって?
なんでもいいや。
彼女の見つめる世界に僕はちゃんといたんだと思うだけで、なんだか幸せな気がしたから。
つまりこの日、僕は頼子さんに恋をした。
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