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プロローグ
「失礼しまーす」
放課後、ノックの音とほぼ同時に音楽準備室のドアが開けられる。
「はい」
「松野先生、ピアノ使わせてー。友達が聴きたいって言うからぁ」
顔見知りの生徒がそう言って顔を出した。
音楽大学志望という彼女は何度となくこのように音楽室に出入りしているため、僕もいつものように
「あーいいよ。あっちのドアは鍵してあるから、そこから音楽室入って」
と、椅子から立ち上がることもなく指示をした。
彼女に続いて数人の女子生徒が音楽室に向かう。
特に見てもいなかったので何人いたのかはよくわからない。
「わあ……」
その声に、机のパソコンに向けていた目線をふと動かした。
「ここってすごく、景色がきれい」
と、微笑みを浮かべた彼女と目が合う。
一番最後にこの部屋に入って来た彼女は見覚えのない生徒だった。
肩下で揃えられた艶のあるストレートの髪と、透き通ったピンク色のセルフレームの眼鏡が色白な肌に似合っている。
やや口角の上がったふっくらした唇が印象的に見えた。
ただ、あまりうるさい方ではない校則のこの学校内では、地味なタイプだと思う。
「ああ……音楽取ってなければ、なかなか来る機会ないだろうな」
高台にある高校の、その三階の端に位置する音楽室からは、陸上グラウンドの向こうに市街地を一望することができた。
紅葉した木々がフレームとなり、西日に照らされた街並みは金色に輝いて見える。
「わたし、ずっと美術だったから。三年なんですけど。はじめてここに来たと思う」
そう言って肩をすくめた。
「みなみー、こっちおいでよ」
「あ、うん。今行く」
一瞬にこりとこちらに笑顔を見せてから、彼女は音楽室に繋がるドアの向こうに消える。
ほどなくしてピアノの音が聴こえてきた。
受験の課題曲に選んだという曲を聴きながら、パソコンに向かい直した。
それから数日後の放課後だった。
コンコンと控えめなノックの音に、返事をする。
「はい」
「失礼します」
と、先日の彼女が顔を出した。
「ああ……この前の」
名前は聞いていなかった。
「あ、谷口です。谷口みなみって言います」
「谷口。どうかした?」
「えっと、先生にお願いっていうか。相談? があって」
「何?」
「ここで勉強させてもらってもいい?」
「え、ここで?」
「すごく景色がいいし。気持ちよさそうだなって思って」
「ああ……まあ、いいけど」
一応、自分が使っている机を含めて二台の机がある。
向かい側にある机はもう何年も使われていなかった。
「ほんとに? うれしい」
と、谷口は人懐こそうな笑顔を見せた。
「まあ、英語とか数学とか聞かれてもわからないけど。それでいいなら」
受験生が落ち着いて勉強できるようなら、場所を提供するくらいしてあげてもいいだろう。
「全然、いいです。わたしも先生の仕事邪魔しないようにするから」
「ああ、そこ使って。掃除はそれなりにやってるけど、埃っぽかったら流しに布きんがあるから使って」
「はぁい」
そう返事をして、谷口は椅子に腰を下ろした。
バッグの中から筆記用具やノートなどを出して、机に広げる。
僕の机との間にある上棚には本や資料が積み上がっていたので、なんの教科を出したかまではわからなかった。
それから二時間ほど、会話をすることもなく時間が過ぎていった。
彼女は自分の勉強に集中していたようだし、僕は僕で授業計画を作成するためにパソコンに向かっていた。
その沈黙を破ったのは彼女からだった。
「あー、もう夕焼け」
窓の外に目を向けると、山の端に日が沈むところだった。
「そろそろ、下校時間かな」
「うん。すごい勉強した感じ。図書館は本読みたくなっちゃって……家でもテレビ観ちゃったりするし」
腕をあげて伸びをする。
袖をまくっているせいで白く細い腕が目に入って、思わず目を逸らした。
「集中できる場所って難しいよな」
「ここはちょっと外見るだけで気分転換になるし。また来てもいい?」
言いながら指先で眼鏡のフレームを軽く上げた。
「ああ、谷口が集中できるなら場所くらい貸すよ。合唱部の練習ある日は勉強は難しいかな」
部活動のある日は人の出入りも多いし声出しや合唱練習を繰り返すため、隣で勉強なんかはできそうにないだろう。
「うん、時々でいいの。ありがとうございます」
その時、生徒の下校を促す放送が始まった。
「じゃ、帰るかな。先生はまだなの?」
荷物を片づけながら、首を傾げる。
「まだ仕事」
「意外と忙しいんだね」
「先生って仕事は暇じゃないんだよ。まあ、今日は部活ないからマシなんだけど」
「そっかぁ。大変だねー」
まだ話しをするようになって二回目のはずだが、もうすっかり知り合いかのようなリラックスした話し方に少し苦笑する。
しかしなぜか不快には感じなかった。
「あれ、なんで笑うの?」
「タメ口かよって思って」
「あ、ダメ?」
谷口は困ったような表情を浮かべて首を傾げるが、
「いや、別にいいよ。気をつけて帰れよ」
僕の返事を聞くと、安心したように笑顔になった。
「うん、じゃあ、さようなら」
谷口はぺこりと頭を下げて、準備室から出ていった。
ドアが閉まるのを見届けてから窓の外を見ると、もう日が沈みきって薄暗くなってきていた。
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