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秘密 2
音楽室のグランドピアノを準備して座り、谷口はすぐ横に立っていた。
「最近あまり弾いてないからな……少しだけ」
「うん、いい。楽譜なくても弾けるんだ?」
「まあ、何度か弾いたことのある曲ならな」
と、弾きはじめたが、
「やだぁ、校歌なんてつまんない」
と言って唇を尖らせた。
思った以上の反応に苦笑する。
「あ、でもこれっていつも先生が弾いてたんだ?」
始業式終業式など、校歌を伴奏することは少なくはない。
「うん。……じゃあこれは?」
少し考えてから、授業で合唱させた数年前に流行したポップスの伴奏を弾いてみる。
「あ、この歌知ってるよ」
谷口はそう弾んだ声で言って、小さな声で歌い出す。
「授業でやったんだ。教科書に載ってる」
「そうなの? 知らなかった」
ワンコーラス分を弾いて、止めた。
「えー終わり?」
不満げに頬を膨らませた。
「あとは繰り返しだし」
「もっと見たい」
指先で眼鏡のフレームをちょっと上げる。
勉強中でもセックスの最中でも、この仕草を何度見ただろう。
「聴くんじゃなくて?」
「んー、ピアノ弾いてる先生の指がきれいで。見てた」
「そうか?」
自分では別段そんなふうに考えたこともなかった。
「うん、なんかやらしくていいね」
この子は本当に、茶化してるのか本気で言ってるのかわからないことが多い。
「……今日はもう終わり」
「なーんだ」
肩をすくめて悪戯っぽく笑う。
その態度に僕がため息をついた時、チャイムが鳴り出した。
「あー、帰る時間」
「いつも一人で大丈夫か?」
下校時刻は変わらないが、冬に向けて日一日と日没が早くなる。
今はもう夜と言ってもいいくらいの暗さだ。
「うん? 図書館で勉強してる人もいるし、バス停まで行ったら友達に会ったりするよ。……あ、友達いないとか思った?」
「いや、……うーん、まあ、少し」
正直に言うと、谷口は面白そうに声をたてて笑った。
他の生徒といるのを見たことは少なくて、少し気になっていた。
ただこの部屋以外で会うこと自体が少なかったし、初めて会った時には友達のピアノを聴くために音楽室を訪れたので、余計な心配だったのかもしれない。
「一番仲良い友達は彼氏がいるからアレだけどね。ていうか先生って、わたしの心配するんだ?」
立ち上がってピアノの屋根を閉じて、鍵板の蓋を閉じた。
準備室に向かう僕の後ろに谷口がついて来る。
「そりゃあ、するさ」
「どうして?」
机に広げたままだった勉強道具を片づけながら、首を傾げる。
肩の上でさらりと揺れる髪が綺麗で、うっかり見惚れそうになって目を逸らした。
「どうしてって……生徒、だから」
「そっか……そうだよね、先生なんだもんね」
ふっと眼鏡の奥の瞳を細めた。
「……まあな」
何か少し、自分の言葉に引っ掛かった。
そして、谷口のどこか自分に言い聞かせるかのような口ぶりにも。
「今日はあんまりちゃんと勉強しなかったなー。明日はちゃんとしなきゃねぇ」
いつも通りの少しのんびりとした口調のせいか、あまり真剣にそう思ってるようには聞こえないが、それでも谷口が受験生であることを思い出させる。
「そうだな。受験生なんだし」
谷口はちょっと肩をすくめて笑ってから、
「じゃあ、また来るね」
とドアの側でこちらを振り向く。
「ああ、気をつけて」
そう答えると、谷口はどこか嬉しそうな笑顔を見せてから、少し短いスカートを翻してドアの向こうに消えた。
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