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秘密 3
ある日の放課後、賑やかな足音が聞こえてきたと思うと、せわしなくノックされると同時にドアが開けられた。
その時谷口はいつも通りに勉強をしていたし、僕は次の授業で使うつもりのCDを探していたところだった。
「松野先生、ピアノ使わせて……え、やだ、みなみ何してんの」
入ってきたのは、谷口と初めて会ったときに一緒だった音大志望の女子生徒、加藤だった。
「勉強してんのー」
それ以外のことも時々あるけど、それは誰にも言えるものではない。
そんなことを思って、僕は誰にも気づかれない程度に視線を宙に泳がせた。
「でも、なんでここなのよ? 図書館とかでもいいじゃない」
どうしてか彼女は明らかに棘のある態度だった。
イライラしたような口調で谷口を問い詰める。
「別に。静かで景色良くて、落ち着いて勉強できるよ」
一方の谷口は普段と変わらない、落ち着いた、のんびりした口調で返事をした。
「集中できるんだったら場所くらい貸すってことになってな。加藤、ピアノなら使っていいよ」
僕はつい口を挟んだ。
「……じゃあ、借ります」
加藤は不満げな様子で、他の女子生徒数人とともに音楽室に入っていった。
「……わたし、あの子あんまり好きじゃないんだ」
ややうつ向き気味に机の参考書を見たまま呟いた。
「えっ……前、一緒に来てピアノ聴いてただろ?」
「まあね。つき合いってやつ? 大人にもそういうのあるでしょ?」
ぱらりぱらりと、参考書を捲る音が聞こえる。
「まあ……あるけどさ」
「別に、友達って言うほど仲いいわけじゃなくて、その時のその場のノリでそうなっただけ。女の子ってけっこういろいろあるんだよー」
「なるほど」
合唱部の前部長だった加藤はリーダーシップもあり、部員達の中では頼れる存在ではあったが、やや目立ちたがりな面も持っていた。
そんな部分が谷口とは合わないのかもしれないと思う。
見た感じでも、もともと目鼻立ちがはっきりした顔立ちに毛先を巻いた髪型でやや派手な雰囲気は、谷口とは正反対だと言えるだろう。
漆黒と言うほどではないが濃い髪色で肩下のストレートの髪型と、きれいな顔立ちはしていても化粧っ気はない谷口は大人しそうな雰囲気に見える。
そのくせ男を誘う術は心得ていて、この年で女は見かけによらないということを体現しているわけだが。
その谷口がふと顔を上げて眼鏡を指先で上げた。
眼鏡が下がってくるとかよりも、癖なんだろう。
「あの子、先生のこと好きなんだよ」
「えっ……」
全然意識したことがなかったから少し驚いて谷口の顔を見た。
けれど、先程の谷口に対する加藤の態度を思い返せば、そんなこともあるのかもしれない。
「去年のバレンタイン、加藤さんチョコとか持ってきたでしょ? いつもそんなことをずっと騒いでる」
「ああ……そうだったんだ」
言われてみれば、もらった覚えがある。
部活も持っていたし、義理だとばかり思っていた。
「ホワイトデーのお返し、先生ってばコンビニで買ったでしょ? ほんと笑った」
その時のことを思い出すかのように谷口は首をかしげて少し上の方に視線を泳がせ、それから面白そうに笑った。
「……そんなことまで知ってるのか」
ちょうどその頃は学年末で忙しく、通勤途中のコンビニエンスストアで済ませた記憶がある。
「だって大騒ぎだったもん。みんな知ってるよ。……でも、あんなわかりやすく行動できるって、ある意味羨ましいな」
と、軽やかに笑った。
そこでふと、ある考えが頭に浮かんだ。
「谷口……お前、まさか」
「なに?」
「加藤のこと意識して……それで、その」
そこまで話して、自意識過剰かと思い直して言い澱んだ。
「あー……出し抜いてやろうとかで先生とセックスするようにしたとか?」
僕が思いついたものの言葉にしにくかった事を、谷口はいとも容易く口にする。
「まさかと思うけど」
「まさか、そこまで考えてなかったよ。ただの興味と現実逃避。受験生にも息抜きが必要でしょ?」
くすくすと面白そうに笑う声に、とりあえず安心する。
「でもそれって面白い。いいね、それ」
「そういうの性格悪いぞ」
じろりと睨んでやっても気にする様子もなく、まだくすくすと笑い声を立てていたが、
「あれ、先生の探してるCDってこれ?」
と、机に備え付けられている上棚から、一枚のCDケースを取りだした。
「ああ、そんなところにあったのか」
谷口は立ち上がって、CDを僕に手渡した。
「はい」
「ありがとう」
「目の前にあったから。探してたのに今まで気がつかなくてごめんね」
「いや、いいんだ」
ふと、ネクタイを掴まれる。
「何?」
「ね、キスしよ」
ネクタイを引っ張られて少し屈んだところに、背伸びをした谷口の顔が近づいた。
キスは嫌だって言ってなかったか? そう言おうとした僕の口は、谷口のふっくらとした柔らかな唇で塞がれる。
ドア一枚を隔てた音楽室では、ピアノ曲が流れている。
加藤の雰囲気によく合った、明るく派手な曲調だ。
正直、僕自身では好んで弾くタイプの曲ではなかった。
その曲はまだまだ終わりそうにない。
唇を舌先でなぞり、その隙間から割り入れると、谷口の舌がそっと絡まる。
細い腰を抱き寄せ、より深く口づけた。
今日は正装のブレザーではなく、略装になる紺色のニットセーターを着ていたため、服の上から背中を撫でただけでも身体の線が良くわかった。
背中の緩やかなカーブを撫でながら、何度も角度を変えて谷口の口内を味わい、舐め合う。
反対の手で滑らかな頬を撫で、髪を撫でた。
ようやく唇を離したのはピアノ曲が終わるころだった。
谷口はゆっくりと目を開け、濡れた唇の端を上げた。
「うばっちゃった」
やや楽しそうな口ぶり。
「別に、誰のものでもないからな」
僕が憮然とした表情を作ってそう言うと、ふふふと笑って目尻を下げた。
「ないしょだよ」
と、その唇に人差し指をあてる。
「ああ」
谷口はくるりと背中を向けて勉強に使っていた席へ戻ろうとしたが、ふと振り向き
「あ、さっきの話も、ね」
と、もう一度唇に人差し指をあてた。
「わかったよ」
念を押すような谷口の様子に苦笑したところで、音楽室のドアが開いた。
谷口はちょうど椅子に座ったところだった。
「終わり?」
「うん、はい」
加藤はちらりと谷口の方を見るが、谷口は全く気にしない様子で参考書を捲っている。
一瞬先ほどのキスは自分の想像だったのかと思ってしまうくらいにそれは自然な動作で、僕は内心舌を巻いた。
谷口みなみという女は、どこまでが本当の彼女なんだろう。
一方の加藤は膨れたような顔でドアへ向かった。
「みなみは? まだいるの?」
別の生徒が何気ない様子で谷口に話しかける。
「うん、まだ時間あるし、もう少し勉強してく」
「そっかぁ。がんばって」
「うん、サンキュー」
そう笑って小さく手を振る相手とは、それなりに仲よくやっているのだろうと思う。
「ありがとうございました」
口々に失礼しましたと挨拶をしながら、女子生徒たちが出ていった。
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