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卒業 1
その後、後期中間考査のテスト週間や成績処理などが続き、生徒が準備室に気軽には入ることができない日が続いた。
テスト前後それぞれ一週間、合わせて二週間のあいだは教科準備室に生徒が入ることを禁止している。
それは芸術教科も同じだった。
「えー、テスト勉強ダメなんだ? 音楽ってテストあるの?」
ドアを開けたままのところで、谷口は不満げに唇を尖らせた。
「ないけど」
僕は自席に着いて机に頬杖をついたまま答えた。
テスト前は部活動もないし、他の教科と違ってテストを作成することも採点することもないので、普段できない事務仕事などをしていたものの、若干時間を持て余し気味だった。
「じゃあいいじゃん」
「そういう決まりなんだよ。バレたらめんどくさいし」
「バレたらめんどくさいことはこれだけじゃないけどねー」
くすくすと悪戯っぽく笑う谷口を睨みつける。
「谷口ー……」
本当は僕をからかっているだけなんじゃないかと思うこともある。
「中間考査に合わせて実技テストはあるし、それの成績付けもあるし。そういう書類が生徒に見られるわけにはいかないんだよ。機密事項」
「そうだねえ、しょーがない。図書館に行くかな」
谷口は大きなため息をついた。
「そうしてくれ。ああ、出入り禁止期間終わったらすぐ部活も増えるから」
「えー、ほんと? 予定表ある?」
「あー、ちょっと待って」
と、机の上のファイルを探して、合唱部の予定表をプリントした紙を一枚取り出す。
立ち上がってドアの側の谷口に近づいた。
「はい」
「ありがと。うわ、びっちりだね」
谷口はプリントを見て、眉を顰めて唇を尖らせた、
「冬休みにコンクールがあってな」
「そうなんだー。がんばってね」
「どうも。ま、僕が頑張るわけじゃないんだけどさ」
「先生ってあまのじゃくだよねえ」
「谷口ほどじゃないよ」
とため息をついて見せると、谷口は面白そうに笑う。
「えー、わたしなんてめっちゃ素直じゃん」
そう言って、眼鏡を指先でちょんと上げた。
「ほら、もう図書館行け」
そうしてもらわないと、引き寄せて抱きしめたい衝動に駆られる。
それは谷口にも知られたくなかった。
「じゃあ、キスして」
「は? ……本気?」
「本気本気。めっちゃ本気」
と、僕を見上げる。
なんでそんなこと、と少し躊躇ったものの、周囲に人がいないことを目で確認してから微笑みを浮かべたその唇に唇を重ねた。
ほんの一瞬、触れるだけのキス。
どうしてか胸の奥が軋んだ。
「これだけー?」
不満げな表情もかわいらしい。
「これだけ。からかうのもいい加減にしろよ?」
「ちぇ。じゃあ、また」
「ああ」
谷口は小さく手を振って、廊下に出ていった。
その背中を少し見送ってから、ドアを閉めた。
谷口も携帯電話は持っているだろうが、電話番号どころかメールアドレスすら知らない。
……知ってどうする、と自問する。
外で逢うなどもってのほかだ。
それに、お互いに身体を求めあう以外の感情もない。
……それは、嘘だ。
一人で音楽準備室にいると、ふとした瞬間に思い浮かぶ、眼鏡のレンズ越しに見える谷口の瞳や伏せられた長い睫毛、ふっくらと艶やかな唇。
白く滑らかな肌と、僕の動きに敏感に感じ入る肢体、甘い喘ぎ声。
そして、あどけないふわりと柔らかな笑顔。
それらのすべてが、僕の思考も動作もストップさせてしまう。
触れたい。
抱きしめたい。
だけど、それは彼女には望まれていない。
それから、二週間が経った。
部活は普段よりは多く設定してあったが、今日は休みにしてあった。
こんな放課後にはつい、今日は来ないのだろうかと谷口のことを想いうかべてしまう。
ただ今日は廊下などでも谷口を見かけることはなかった。
僕は外の景色に目を向けて、深くため息をつく。
数日前から居座る寒気のせいで、降っては溶け降っては溶けを繰り返していた雪はもう溶け切らずに、根雪になりそうな雪の塊が街のあちこちに見えていた。
今日も空には雪雲が広がっていて、今にも降り出しそうだ。
どんよりとした空の色は、どこか自分の胸の中と似ている気がした。
……少し気分を変えるべきだな。
そう思って立ち上がり、音楽室に向かった。
ピアノに向かって集中して一曲弾けば、少しは気が晴れるだろう。
グランドピアノの屋根を開き、鍵版の前に座った。
少し考えてから、学生の頃から好んで弾いているピアノソナタを弾き始めた。
曲も終盤に差し掛かったころ、音楽準備室との間のドアが開いた音で手が止まった。
「あ……えっと、ごめんなさい」
顔を見せたのは、谷口だった。
「来てみたら先生いなくて……こっちからピアノの音が聴こえたから……」
「ああ……ごめん、気がつかなくて」
自分で思っているよりも演奏に没頭していたようだった。
谷口は少し笑って、こちらに近づいた。
「先生、すごい曲弾けるんでしょ」
「すごくないよ、このくらい」
「きれいな曲だった。終わるまで準備室にいればよかったかな」
「何言ってんだよ」
と僕は苦笑する。
「……ちょっと、ひさしぶり」
少し俯き加減で呟く。
「そうだな」
「勉強してって、いい?」
「ああ、構わないよ」
そう返事をするとにっこりと笑った。
「コーヒーでも飲むか? インスタントだけど」
「えっ、なにそれ親切すぎない?」
少しわざとらしく驚いて眼鏡の奥で目をぱちぱちと瞬かせて見せた。
「いらないならいいけど」
「飲む飲む。うれしい」
谷口の弾んだ声を聞きながら立ち上がって、ポットの側へ行く。
コーヒーの粉をふたつのカップに入れ、お湯を注いだ。
「お砂糖とミルクあったらほしいな」
「注文多いな」
そう言いながらもスティックタイプの砂糖とミルクを一つずつ入れてスプーンで混ぜたものを、谷口に手渡した。
「ありがと」
谷口は両手でカップを受け取る。
「いや、ついでだし」
「……あのね、先生」
呟くように話し出した。
一旦言葉を止めて、カップにふーっと息を吹きかけて、一口啜る。
「ここに来るの、二学期はもう最後だと思う」
来週には冬休みに入る。
それまでの間、今日以外は部活動の予定が入っていた。
「そうか」
「三学期は、すぐに自由登校だし……学校には、あまり来ないかもしれない」
谷口の家は市内ではあるが、乗り換えなどの都合で通学に一時間はかかるという話を聞いていた。
冬の交通事情を考えると、必要がなければ外に出ないのが一番のようだ。
「そうだな」
「……それだけなんだけどさ」
やや俯いたまま、眼鏡を指先で上げた。
そして手の中のカップに口をつける。
「うん」
それ以上何も言えなかった。
谷口もそれ以上のことは言わずに、勉強道具をバッグから取り出していつも通りに勉強し始めた。
谷口が参考書を捲る音、ノートに書き込むシャープペンの音。
僕がパソコンのキーボードを叩く音。
淡々と時間が過ぎていく。
僕らの間には何もない。
何の感情もない。
……ないと思わなければならない。
どうすることもできない。
「あ」
ふと谷口が顔を上げて、窓の方を見て声を上げた。
「雪降ってきた」
窓の外では薄暗い空からふわふわとした白い雪が落ちてきていた。
「ああ、今朝の予報で言ってたな」
この窓から見えるグラウンドも白く縁取られていて、もう外で練習をする生徒はいない。
「もう完全に冬だねぇ」
今の雪も積もりそうな雪だ。
「そうだな」
全てが雪に覆われる冬が来て、それが終わる頃には、谷口は卒業していく。
「……受験、がんばれよ」
「うん、ありがと」
「本降りになる前に帰った方がいいんじゃないのか?」
積もりだすと帰りのバスにも影響してくる。
「ん……そうかも。うん、そうするかな」
そう答えて、ややゆっくりとした動作で片付けはじめた。
ピーコートを羽織って、マフラーを巻く。
「足元冷えるだろ、それ」
谷口の足元はまだ生脚にハイソックスだけだった。
標準より少し短いスカートから、すらりとした脚が伸びる。
「三学期からタイツにしようかなと」
へらっと照れたような顔が若干つくり笑顔に見えた。
「風邪引くなよ」
「はぁい。……心配、してくれるんだ?」
「そりゃあ、生徒だからな」
それ以外の感情も、自覚していたが。
今はそう言うしかない。
僕の言葉を聞いた谷口が見せた笑顔は、先程の作り笑いとは違う、やけに清々しく眩しく見えた。
「じゃあ、また」
「ああ、気をつけて」
谷口は小さく手を振って部屋を出た。
一見真面目でおとなしそうに見えるが、意外に人懐っこく、よく笑顔を見せる。
しかし、本心はあまり他人に見せないような気がした。
もちろん、僕に対しても。
もう閉められたドアを見て、僕はため息をついた。
谷口の何を知っているというんだ。
何が本心で何が嘘なのか、本当のところは何もわからない。
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