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京都駅近く、下京区役所に程近い雑居ビルの一階に、こじんまりとした旅行会社があった。
外観からはおよそ営業しているようには見えないその旅行社は、昨今増えている外国人旅行者のプライベートガイドを得意としていた。
「もうこんな時間…」
8時間近を示す時計を見て、背中の中程まである一括りされた黒髪のゴムを解きながら、榊 萠(サカキモエ)がポツリとこぼす。
デスクの上には今日終わった三泊四日の京都奈良ツアーの報告書と、クリアファイルに入った<Frise chronologique(年表)>と書かれた原稿がある。
萠は報告書を上司の書類で溢れたデスクに置き、原稿を掴む。
「お先に失礼します」
「おつかれー、明日は休みだよね?」
同僚の声に頷いて返し小さく溜息を漏らす。
「そう、でも明後日には新選組ツアーなんだよね。これ、家で最終確認しなきゃ」
手に持った原稿をひらひらと揺らす。
「フランスからのお客様だっけ?」
「うん、何でも娘さんがアニメかなんかで新選組のファンになったとかでね。まあ、史学科卒の私としては本領発揮ってとこだけど、憧れ壊しちゃうかもね」
それじゃっと言って、萠はツアー中の荷物の入ったキャリーを引いて外に出た。そこでまた溜息。
溜息の理由はこの後の約束。本当なら直ぐにでもマンションに帰りたいのだがそうもいかない。
まして約束の相手が三年前に別れた男 市浪 玄邦(イチナミ ゲンホウ)とあっては尚更だ。
面倒くさい、口から出そうになる言葉を飲み込み、一歩を踏み出した時だった。
「榊萠さんですよね?」
突如聞こえた声の方を見ると、二ヶ月ほど前にたった今面倒くさいと思った相手と来店した女だった。
「杉本様、先日はお世話になりました。グレゴワール様はいかがでしたでしょうか?」
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