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店内入ると時代を感じさせる船箪笥が目につく。そして三席しかない落ち着いた欅のカウンター。そのカウンターの端にディナーベルが置いてあった。 「これ呼び鈴だよな」 市波がディナーベルを持ち上げると軽やかな音色がする。 その音色に返事をして千本格子をモチーフにしたパーテーションの後ろから、濡羽色の長い髪を一くくりにした色白の女が出て来た。 「いらっしゃいませ。今日はどう言ったご用件でしょうか」 「萠… 」 「… 市波様、ご無沙汰しております。」 市波は京都に居る筈のない萠が、目の前に現れた事に驚いていた。すると、杉本が市波のスーツの袖を引く。 「玄邦君、知り合い?」 「ああ、大学の剣道部で一緒だった」 突然の事でそう答えたが、杉本には萠が市波の元カノだった事が直ぐにわかった。 何しろ萠と市波が別れる事になった原因が杉本だったのだ。 それは市波が入社二年目、萠が大学を卒業した年の夏だった。 市波は大学を卒業して、そのまま京都の製薬会社に勤めた。その二年後、萠は大学を卒業すると長野県小布施の祖父の元へ戻った。 萠にすると、大学二年の時に祖母が亡くなり、気落ちした高齢の祖父を一人にしておく事が不安だったからだった。 遠距離恋愛になり、すれ違う二人。 そんな隙間に市波の同じ職場の先輩 杉本が入り込んだ。酔った上での浮気だった。 会えない寂しさもありズルズルと市波と杉本の関係は続き、萠の知るところとなった。 そんな経緯があったからこそ気付いたのだ。
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