【第一話】

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【第一話】

 ガンガンと執拗に玄関ドアを叩きつける音で、微睡から引き剥がされる。  オンボロアパートであるこの家にはインターフォンが無い。いや、単に壊れたのを放置しているだけなんだけれど。  著しく社会性に欠ける俺を訪ねて来るのなんてセフレのミツルくらいしか居ないから、特に困る事もないのだ。  そのミツルが、隣でモソモソと起き上がる。  「一樹、なに?外、うるっせんだけど」  「ごめん、起こした」  寝起きのミツルは大概機嫌が良くない。と言うか、めちゃくちゃ悪い。  しかも、昨晩は二人でしこたま酒を飲んでヤりまくった。二日酔いと疲労が相まって、コンディションは最悪の筈だ。  起こる嵐を回避するかの様に「今、出ますッ」と叫んで、ベッドに散乱した服の山からボクサーパンツを拾い上げる。  取り合えずの衣服を身に着けて玄関ドアを細く開けると、隙間から顔を覗かせたのは、見知らぬ女だった。  歳は自分よりちょっと上くらいだろうか。垢ぬけない服装に、旅行用と思われる巨大なバッグを肩から下げている。  差し込む朝日に目を細めながら「どなたですか?」と尋ねる。  と、女は一つ息を大きく吸うと「添田 一樹さんですよね」と、確信をもって口にした。  久しぶりにフルネームで名前を呼ばれたな、というどうでもいい感想と共に記憶をフル回転させてみる。が、やはり女の顔に見覚えは無い。  再度、素性を問い質そうと口を開きかけた瞬間、女は爆弾みたいなワードをドアの外から撃ち込んできた。  「はじめまして、私は藤堂 裕美香といいます。お兄さんの添田 朔太郎さんの件で伺いました」  ――朔太郎。サク。  一瞬、足元がグニャリと歪んだ様な気がした。  六年間封印していたその名前が、二日酔いの頭の中をグルグルと駆け巡る。  「一樹、どうした?お客さん?」  呆然と玄関先に佇む俺を不審に思ったのか、ミツルがのそりと背後に立つ。何と答えて良いか分からず涙目で振り返ると、パンツ一枚に咥え煙草のセフレは不可解に眉根を寄せた。  「あの...説明させて頂くので、お部屋に上げて貰えますか?」  遠慮がちに、だけど頑なな態度で訴える女を、ミツルの視線が鋭く捕らえる。  「一樹の知り合いの人?」  「いえ、私は一樹さんのお兄さんの知り合いの者です」  真夏の日差しの下で、女の額から汗がポトリと流れ落ちる。  ミツルは少し驚いたように「お前、にいちゃん居たの?」と言って、自身が咥えていた煙草を俺の唇に突っ込んだ。  何時の間にやら俺は、ワンルームの部屋の中、藤堂と名乗る女と向かい合う形で座っていた。  グラスに注いだペットボトルのお茶を、ミツルがローテーブルに並べてくれる。190センチの身長を誇り、右腕と左脚に入れ墨をガッツリ施したミツルは、その威圧感の割には妙に律儀なところがあるのだ。  藤堂さんは、ソワソワと落ち着きなく部屋の中を見回している。その視線が、昨晩のセックスの形跡が残るベッドにぶつかり、気まずい空気が流れた。  「俺、帰るわ」と言って立ち上がろうとするミツルの腕を取り、強引に引き留める。  「ゴメン、居てくれると助かる」  迷惑な申し出だと分かってはいる。が、俺にとっての最大の地雷を運んできた藤堂さんと二人にされて、正常な精神でいる自信が持てない。  渋々座り直すミツルと俺を交互に眺めながら、藤堂さんは「お二人は恋人同士ですか?」とストレートに尋ねてきた。  「...違いますけど」  何で垢の他人にと思いながらも、俺達が恋人同士などではなく、セフレと友達の間くらいな関係である事を説明してやる。  すると、何故か藤堂さんは安心したみたいに表情を緩め、「そうなんですね」と言った。  「つか、俺達男同士だけど、それに対しては違和感とかはないんですか?」  「あ、それはサクちゃんから聞いてるので。一樹さんの恋愛対象の事とか」  自分のコアな部分が見知らぬところで語られていたのにも腹が立ったが、俺はそれより気に障った事を口にしていた。  「サクちゃんって、呼んでるんですか?」  「そうですね。一樹さんは、お兄さんの事、何て呼んでたんですか?」  尋ねる藤堂さんに悪びれる様子はない。  「俺は、サクって――」  その呼び名を口に出した瞬間、手足の先から震えが駆け上がった。心臓は激しく身体を打ち付け、頭の中が沸騰しそうになる。  急に黙り込んだまま肩を小刻みに震わせる俺を見て、藤堂さんが慌てるのが分かる。何とか平静を取り繕わなくてはと、深呼吸を繰り返す。  が、「大丈夫ですか?」と差し出された藤堂さんの手を振り払い、気が付くと泣きながら俺は叫び散らしていた。  「何だよッ、今更。勝手に居なくなって、俺の事独りにして―――。何で...何で居なくなったんだよッッ、サク..........」  六年間、身体の奥底に溜め込んでいた何かが決壊するかの様に、涙が溢れて止まらない。  ――サク。  愛しさや憎しみや悲しみを込めて、何度その名前を呼んだ事だろう。だけど、サクは俺を拒絶して姿を消した。  染みのついたカーペットに突っ伏しながら、声を抑えず泣き続ける。  そんな俺に向かって藤堂さんは、急に訪ねてきた事、驚かせてしまった事を詫びた。そして、静かにこう続けた。  「一樹さん、私、あなたと一緒にサクちゃんの話をするために沖縄から来たんです」                                      
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