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【第三十九話】
目覚めて最初に目に入ったのは、見知らぬ天井と不安気に俺を覗き込むミツルと藤堂さんの顔だった。
「一樹、大丈夫か?」
「一樹さん、大丈夫ですか?」
二人の声が重なる。さっきまで夢に出て来ていたサクの「カズ、大丈夫だ」と重なって、俺はなんだか泣きたくなった。
藤堂さんに連れられて行った墓地で気を失った後、俺はこの場所に運ばれてきたようだ。
「ここは?」
掠れる声で藤堂さんに聞くも「まずは、これ飲んでください」と言われ、ミツルに身体を支えられながらグラスの水を飲み干す。
「民宿です。知り合いのところなんで、直ぐに受け入れて貰えました」
「そっか。迷惑かけちゃってゴメン」
平屋の民宿は、広く開け放たれた縁側から畳の部屋が続きになっていて、開放感のある造りになっていた。コの字に開けた中庭にはブーゲンビリアが咲き誇り、夕方の陽射しと共に柔らかい風が吹き抜けている。
暫く三人でぼんやりと外を眺めていると「あ、起きました?」と戸口から声がかかる。
振り向くと、そこには十七歳の頃のサクの姿があった。
いや、分かっている。墓地で会ったこの男はサクではない。
俺の表情から悟ったのだろう。男は「驚かせてしまってスイマセン」と頭を下げた。
藤堂さんとミツルも、居心地悪そうに視線を畳に落としている。
「ご迷惑おかけしました。あなたはサクの...」
男は一瞬言葉を失うが、直ぐに腹を括ったような表情をして俺の正面にきちんと座った。
「添田一樹さんですね。初めまして。僕は村瀬蒼汰(むらせそうだ)といいます。お察しの通り、父親はあなたのお兄さんの朔太郎さんです」
「――お母さんは美夏さん?」
「その通りです」
サクの面影をその顔に湛えた蒼汰は、きっぱりとした声で告げる。
不思議な事に、そこには驚きやショックにも増して、あの夏の日の懐かしさが溢れていた。
サクが十二歳、俺が六歳の夏の日。
腹を空かした俺のためにスーパーで万引きしたサク。
アイスを欲しがった俺のために美夏と寝たサク。
眩しくて目が眩むような、サクと過ごしたあの日々。
「一樹、無理するな」
いつの間にか隣にいたミツルが、震える俺の手を強く握ってくれる。
「大丈夫だよ」その手を強く握り返しながら、頷いてみせる。
サクが姿を消したのは、あの部屋で俺を抱いたその次の日のだった。朝方まで何度も求め合い、疲れ果ててウトウトと微睡む中、サクは一人家を出て行った。タバコと携帯だけをポケットに入れ、まるでコンビニにでも行くような恰好で。
家を出る寸前、ドア越しにサクが振り返る。眩しく朝日を受けてその表情は見えにくかったが、恐らくサクは笑っていた。
そして、寝ぼけたままの俺に向かって何かを言ったのだ。
その言葉をサクと共に取り逃がしたまま、ここまで来てしまった。六年経った今、俺はもう一度サクを捕まえなくてはならない。それが、例え実態を伴わないものだとしても――。
「僕の名前――蒼汰の由来がまた笑っちゃうんですよ。生生しい話だけど、いいですか?父は一樹さんに隠したがってたみたいだけど、僕はこのエピソード嫌いじゃないんです」
「教えてください。俺も、たぶん大丈夫だから」
蒼汰は「ありがとうございます」と言って、サクとは少し違うスッキリした笑顔を見せた。
「一樹さんはまだ小さかったので覚えているか分かりませんが、うちの母は大分踏み外した人でした。お腹を空かせてそうな兄弟にアイスキャンディーを買ってあげる代わりに、まだ十二歳だった父と寝たと平気で言いました。で、そのたった一回で見事に僕が出来たと」
ミツルが手を握り続けてくれるが、俺はもう震えてはいなかった。
「で、その時のアイスがソーダ味だったから、僕は蒼汰になりました。『アイスが当たらなかった代わりにアンタが当たったのよ』なんて、訳の分かんない事言ってます」
ミツルと藤堂さんが反応に困っている中、俺はひっそりと笑う。美夏らしい。俺はたった一回しか会う事は無かったが、素っ頓狂な、だけど優しい女だった。
「夕飯、美味しかったです。美夏さんが作ってくれたの覚えてる」
「母も喜ぶと思います。...ていうか、一樹さんあんまり驚いてないですね。僕と母の事は、父が――朔太郎さんが必死で隠してきた筈だけど」
『一樹にだけは言えない』と言った武さんの言葉が蘇る。
――ツメが甘いよ。サクも武さんも。
思い出は姿を変える。
俺のために犠牲を重ねてきたと思っていたサクは、俺を深く愛してくれていた。怖がって箱に詰め込んで鍵をかけたままにしていた記憶は、実際に開けてみると思いも寄らない優しい姿を見せる。
藤堂さんが現れなければ、ミツルが側で聞いていてくれなければ、一生気付く事が出来なかったかもしれない。
「驚いてはいます。けど、何となく予感はあったんだ。サクが姿を消す直前、俺は何となくサクが抱えてたものを理解した気がしたんです」
「そうですか」と言って、蒼汰が続ける。「けど、父が抱えていたものの多くは僕達家族じゃないと思います。仕送りこそ続けてくれてましたが、母には常に彼氏が入れ替わりで居ましたし、父に籍を入れるだの認知してくれだの、そんな事は望んでもいませんでした」
「サクと暮らしてはいなかったんですか?」
「はい。僕がまだ小さかったからよく会いに来てくれていたし、僕は父が好きでした。けど、母の意思もあって、僕らが一緒に暮らす事はありませんでした。今、僕がここに居るのは――」
蒼汰が言いかけた言葉をハッと飲み込む。伺うその視線の先には藤堂さんの姿があった。
俺は深く深呼吸する。
最後の箱を開ける時が来たのだ。
「藤堂さん」
呼びかける先の彼女はとても静かで、やがて役割を終える充足感からかその輪郭はとても柔らかく見えた。
「俺、知ってたよ。藤堂さんがずっとサクの事、過去形で話していたのを」
ミツルの震えが握り合う手を通して伝わってくる。
――有難う。ここまで連れて来てくれて。
声に出すと涙がこみ上げそうだから、心の中でそっと呟く。今は、それが精一杯だ。
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