【第五話】

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【第五話】

 頬を撫でる冷たいタオルの感触に、目を開ける。  まだ霞んだ視界に飛び込んで来たのは、サクのホッとしたような笑顔だ。  「――サ...ク?」  喉の奥が貼り付いたみたいに、上手く声が出せない。  「カズ、大丈夫か?水飲めるか?」  サクに支えられて起き上がり、差し出されたグラスを奪うようにして水を煽る。  急いで飲むなと注意されながら二杯目を空けたところで、ようやく身体が落ち着いた。見渡す窓の外はすっかり暗くなり、サクはいつもの優しい兄だった。  どうやら俺は、襖の側で蹲ったまま意識を失っていたらしい。恐らく、脱水による軽い熱中症か何かだったのだろう。「病院連れて行くか迷った」とサクは珍しく心細げに言った。  ――襖の向こうで起きていたアレは、夢だったのだろうか。  一瞬そう思いかけたところで、美夏が玄関から姿を現した。「ただいまぁ。つか、あんたらの家ってガチで親帰ってこないんだねー」  ズカズカと部屋に入ってくると「お、元気そうじゃん」と言って、無遠慮に俺の顔を覗き込む。思わずプイと目を逸らす俺と美夏の間で、サクは気まずそうに俯いていた。  そんなサクの様子から、ああ、あれは夢なんかじゃなかったんだなと俺は理解する。  「...まだ、ここ居る気かよ」  ボソボソと抗議するサクを意に返す事なく、美夏は「ここ借りるわよ」と台所に向かう。そして、買い物してきたらしい食材を並べ、手際よくそれらを捌き始めた。  普段、洗面以外に使われる事の無い台所に女の人が立っている光景はただただ不思議で、俺はサクと二人、呆然とその後ろ姿を眺めていた。  そういえば、母さんはどんな料理を作ってたっけ――。  最後の方の記憶は病院のベッドに伏せる姿ばかりで、家で一緒に過ごした母親の様子を上手く思い出せない。  「できたよ」  美夏に呼ばれて、ボンヤリしたまま湯気の立った食卓に着く。  意外な事に美夏は料理が得意らしかった。卵がとろける様なオムライスを、俺はその時初めて食べた。  世の中にこれ程美味いものがあったのかと感動しながらスプーンを口に運ぶ俺に、サクが目を細める。  「熱いから気を付けてね」  付け合わせのスープが差し出された。野菜の溶けたコンソメの甘い香りが鼻をくすぐる。  コンビニで貰ってきたプラスチックのスプーンで、その金色に輝く汁をすくって口に運ぶ。  ベーコンの食感と共にそのスープを味わう中で、俺は唐突に思い出した。母さんがよく作ってくれた料理はポトフだった。ポトフという料理名は理解していなかったが、この味だ。  母に似て病気がちだった俺は、食が細かった。そんな子供に効率よく栄養を与えるために、母さんはよく玉ねぎやら人参やらをベーコンと一緒に煮て出してくれたのだ。  「おかあさん...」  気が付くと、口からその言葉が零れていた。  サクがはっとした様に食事の手を止めるのが分かったが、溢れるものを抑える事が出来ない。  プラスチックのスプーンを握りながら肩を震わせる俺に、美夏の優しい声が降りかかる。  「お母さんじゃなくてゴメンね。私に子供が生まれたら、アンタ達の分までいっぱい可愛がるからね」  「結局、その美夏って女は何だったんだ?」  袋の中のアイスキャンディーは、すっかり溶けてしまっていた。  封印していた筈の記憶は、言葉に出す事で鮮明に蘇る。  ミツルと藤堂さんと一緒に囲んでいたローテーブルがあの日の食卓と重なり、強い既視感を覚える。二人に十七年前のサクの話をしている間、俺は軽くタイムスリップしたような感覚に陥っていた。  「今考えても、よく分からない人だったな。結局、その夕飯の後に出て行ったきり、二度と会う事はなかたよ」  美夏もよく分からない女だったが、あの時のサクの行動も俺にとっては意味不明だった。  ただ、それ以来、俺はサクを男としてどこか生生しく見てしまうようになっていった。それだけに、自分にとって掘り起こしたくない記憶だったのだ。  「まぁ、それにしても、お前の兄ちゃん面白れぇな」  「ね、サクちゃんらしい」  ミツルと藤堂さんの屈託のない感想に、俺は「へ?」と間抜けな返事をしてしまう。  そんなものか?あの忌々しい思い出が、面白いだのサクらしいだので片付く話なのか?  だって、サクは俺だけのサクの筈だったのに。なのに、俺を蔑ろにしてあんな事を――。  「サクちゃんは、本当に一樹さんが大事だったんですね」  藤堂さんの斜め上からの言葉に、思考が中断される。サクのあの行動が、何故俺を想ってに繋がる?  「...そんな...適当な事、言わないでください」  反論する声が震える。が、藤堂さんは、俺の怒りをものともせずに続ける。「サクちゃんの行動はいつも突飛だけど、信念があります」  「――?」  「そしてその信念は、いつも一樹さんに向けられたものな気がするんです」  「何を...証拠に?」  反撃の言葉を紡ぎながら、俺は藤堂さんの持論に光を見てしまう。  だって俺はサクだけだったし、サクだって俺だけだった筈なんだ――。  「アイスの棒」  「え?」  「アイスの当たり棒をね、サクちゃん溜め込んでたんですよ。もう、何十本も。一緒に住んでて私も気付かなかったんだけど、一樹さんの話をしながら見せてくれたんです。宝物を見せるみたいに」  「な...んで?」  声が震える。今度は怒りではなく嗚咽で。  「十二歳のサクちゃんは、一樹さんにアイスを食べさせてあげたかったんですよ。だから、お話してくれた思い出は、サクちゃんにとって宝物だったんだと思います」  目の前が、涙で霞んで上手く見えない。困ったように笑うミツルの顔がぐにゃりと歪む。  「一樹、溶けちまってるけど、それ開けてみろよ」  言われて、手に持ったままのアイスのパッケージを開く。溶けた液体を零さないように気を付けながら、刺さっていた棒をゆっくり引き抜いた。  木の棒に滴る水色の液体を舐めとる俺を、ミツルと藤堂さんがワクワクした顔で見守っている。  「どっちでした?」藤堂さんが待ちきれないとばかりに、発表を急かす。  口から取り出した棒を反転させ、俺は判定結果を二人に向けた。  「あたり」    
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