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【第四話】
「はい、これ」
突然現れた謎の女は、有無を言わせぬ態度でスーパーの会計を済ませると、サクにお菓子の入った買い物袋を手渡した。
「...いい、いらない」
何故か頑なに受け取らないサクを、女は不思議そうに眺める。
事の顛末が理解出来ていない俺は、兎に角危機が去った事に安堵し、早く二人になってサクに甘えたかった。
「ねぇ、私、美夏っつーんだけどさぁ、アンタは?」
ボンヤリしていた俺は、美夏と名乗る女に突如矛先を向けられてドギマギしてしまう。
「カズに構うんじゃねーよ」
サクが噛み付くも、美夏が怯む様子は無い。むしろ、気にも留めない態度で「カズくんっていうんだ。――で、君は?」と言って、サクのおでこを指でピンと弾いた。
「触んな」とサクが美夏を邪険に振り払う。そして、ボソボソと「朔太郎...」と答えた。
「朔太郎?萩原?」
「ちげーよ」
今になって思うと、あの時のサクは照れていたんだと思う。だって美夏の恰好は露出が激しく、子どもながらにも刺激的な印象だった。
太腿を露わにした短パンに、胸が零れ落ちそうなキャミソール、ツルリと伸びた手足は夏の日差しに晒されて、うっすら赤く焼けている。
「これ、早く食べないと溶けちゃうよ」
美夏が、買い物袋から取り出したアイスキャンディーを目の前でにチラつかせた。我慢できず手を伸ばす俺を、サクが「カズ、よせッ」と鋭く遮る。
いつになく強張ったその声に驚いて、思わず涙目になってしまう。悪戯しても我儘言っても、サクは普段俺に対して怒鳴りつけるような真似は決してしない。
「サク、怒ってる?」おずおずと顔色を伺う俺に、サクは困ったような笑顔を向けた。そして、「スイマセン。これ、いただきます」と言って美夏の手からアイスを受け取り、袋を破って渡してくれた。
「カズ、冷たくてウマいから食ってみろ」
「うん...」
恐る恐る差し出した舌を伝うその青く冷たく甘い汁に、俺は一瞬で魅了された。
「サク、これ美味しい!」
「そっか、良かったな」
嬉しくなって、アイスを持つ反対の手でサクの手を握る。笑顔で「帰るぞ」と言うサクは、いつもの優しい兄に戻っていた。
そんな二人のやり取りを見ていた美夏は満足そうに笑うと、何故かそのまま家路に着く俺達の後をくっついて来た。
気味が悪いし、美夏が歩きながら時折サクの耳元で何か囁く様子が気にかかる。が、サクが拒絶しない限り、俺は大人しくしている事にした。
炎天下の中、結局、美夏は家まで歩いて着いてきた。そして、当たり前のように部屋の中まで入ってきたのだ。
「きったない家ね」
初めて聞いた感想だった。幼稚園にも行かせてもらっていない俺には友達なんか居なかったし、他の家庭の様子を知らなかったのだ。
それより、たまにしか帰ってこない父親を除くと、普段サクしか居ない部屋の中に見知らぬ女の人が居る事が不思議でならなかった。
「喉乾いちゃった。何か飲み物ないの?」
サクが当然のように水道水を汲んで差し出すと、美夏は変な顔をして「ありがとう」と言った。
出された水道水には口を付けず、美夏は聞いてもいない自分の話を俺達にベラベラと喋った。
歳は未だ10代で、高校は多分中退(面倒くさくて行かなくなってから、どうなったか分からないという)して、実家には二年近く帰っていないという事。
どこぞのヤクザの下っ端と付き合っていて、その男の家がこの近所にあるという事。
男と揉めて家を出る時に勝手に金品を拝借し、そこそこ手持ちの金があるという事。
「――そんな感じで、私、結構現金持ってて、そんでヒマなのよ」
舌ったらずに話す美夏の話の意味が、俺には半分も分からなかった。多分、サクもそうだったと思う。
かと言って、サクは積極的に美夏を追い出す事もせず、ただ「ふうん」「あっそう」とか適当な相槌をうっていた。
一通り話しを終えると、美夏は「ところでさ」と言ってサクに向き直った。そして、ハーフパンツから伸びたサクの脛を、派手なネイルで飾り立てたその指でスルリと撫で上げた。
一瞬、サクの身体がピクリと跳ねるのが分かる。それに満足したように、美夏は続ける。
「確かに私はお金持ってるけどさ、奢ってもらったらお礼はしなくちゃよね」
「カズ、ちょっとだけ待ってろ」と言って、サクは美夏と一緒にせんべい布団の寝室へ入っていった。隔てられた襖は、絶対に開けるなと言われている。
俺は、突然一人にされた寂しさと、美夏にサクを盗られたような焦燥で、閉じられた襖の側を離れる事が出来なかった。そして、少しでも中の様子を伺おうと、身を寄せるようにして耳をそばだてた。
暫くすると、中から美夏の轢き潰されたような細い悲鳴が切れ切れに聞こえてきた。
最初、美夏がサクに虐められているのかと思ったが、それにしては、その鳴き声に甘い響きがあるのに違和感を感じる。そして時折、揶揄うような囁きや密やかな笑い声が混じるのだ。
その笑い声が一際大きくなったと同時に、サクの「うッッ――」というくぐもった声が耳に届いた。
サクが美夏に何かされたのではと焦り、襖を開けたい衝動に駆られる。が、「ちょっとだけ待ってろ」と言ったサクの表情は固く、そこには絶対的な命令を感じた。
さっきみたいに急に怖くなった兄に突き放されたら、俺は生きていけない。サクの身を案じる一方で、約束を破る事への代償に恐怖する。
結局、石みたいに固まったまま、俺はその場に蹲る事しか出来ないでいた。
するとまた、美夏の甘い鳴き声が響いてきた。
混乱しながらも耳を傾けていると、そこに絞り出すようなサクの叫びが入ってくるのが分かった。
「んぁ...、あ...ッ、ああッ」
聞いた事も無いサクの声に驚いて、思わず耳を固く塞ぐ。聞くまいと思うのに、全身の神経は隔てらてた襖の向こうに集中してしまう。
そして、何故か股間の辺りがムズムズと痒くなってくるのが分かった。経験した事の無い感覚に混乱するが、どうにもならない。
気が付くと俺は、切羽詰まったような、それでいて獰猛なサクの叫びを必死で追いかけていた。
そして願ったのだ。
――その声の合間に、俺の名前を呼んでくれないかと。
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