誘拐中

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とある地域の某小国で革命が起きた。革命はほとんど無血に近い状態で終わり、独裁政治は終わりを告げた。暴君は国外追放となり、市井のひとびとは残忍な搾取から解放されたのである。 が。 それでめでたしめでたしとはいかないのが、政治の世界だ。 選挙で晴れて議員になった元革命の志士たちはこの国の運営より、革命活動の方が遥かに楽だったことを身をもって知る羽目になる。 「なんだこれは!」 まず、記録がでたらめと空白に占拠されていてこの国の状態がまるでわからない。 「露店商でももっと正確だぜ」 「わざとだろうなあ」 「不都合なことは闇に葬ったんだろう」 「おい! 国内にいる元官僚どもを連れてこい!」 いや、わかることもある。国庫がほぼ空っぽだということ。 「まさか、持ち逃げ」 「いや、元々なかったんだろう。やつらが、戦をしかけて来たときの武器を思い出せ」 「てっきり、情報不足で変なの売りつけられたのかと」 「どっちもだろうな」 「安いから飛び付いたんだぜたぶん」 「だが、あいつらが着ていた服は金ぴかだった」 「ありゃ、にせもんだ。錆びてた」 「すみません!」 表で誰かが声を張り上げた。 ひとりがかけつけると郵便受けは破裂寸前だ。 「すみませんが、郵便受けがいっぱいで入りきらんです」 「これ、請求書ですな。諸外国からの」 後から来た議員が言う。 「記録が多少は埋められそうだ」 「さて、諸君」 元革命の志士のリーダーであり、この度、国のトップに君臨した彼は一堂を集めて不敵な笑みを浮かべた。 「我々の見方は確かに甘かった。だが、それは逃げる理由にならない。今こそ国外追放となった暴君どもに我々の力を見せるときではないだろうか」 議員たちは決意新たに直ぐに行動を開始した。 大臣から上記の話を聞いたときの衝撃と決意を忘れたことはない。彼は議員ではなく、外交官であったが、かつては革命の志を持った活動家だった。活動中に培った人脈と知恵と語学力を惜しみなく使い、文字通り東奔西走した。彼には皆を引っ張るカリスマ性はなかったが、情報収集と根回しはだれにも負けなかった。 その手腕があまりに見事だったために、大臣や議員たちは外患にさほど煩わされることなく、内憂にある程度専念できた。いや、内憂の解決のきっかけさえ。彼は文句も言わずそれに応えた。応え続けた。 そして倒れた。病院にかつぎ込まれ三日三晩寝込んだ挙げ句、行方不明になった。 「僕、せっかく外交官になれたのに」 外交官はわざとらしくため息をついた。 「まだクビになってないはずだけど」 隣で女性が応える。女性は外交官のため息など歯牙にもかけない様子でお茶を飲んでいる。彼女はかつて同志だった。今は政界に入らず、医者をしている。 「これまで無遅刻無欠席だったのに」 「じゃあ、帰ったら? 今なら無欠席だけは守られるわよ」 「船上でどうやって帰るんですか」 外交官は再びため息をついて目の前のお茶に手を伸ばした。 「誘拐だって訴えればいいわ。実際、誘拐ですもの」 「君に銃で脅されるとは思いませんでしたよ」 「うまかったでしょ?」 「医者の言うことですか」 「ご存じの通り、昔は諜報員だったもので。で、どうする? 通報する?」 「君を通報するなんてできるわけないでしょう。ずるいですよ」 「見て!」 誘拐犯は立ち上がった。 「空が最ッ高に青い!」 人質は空を仰いだ。目に蒼穹がいっぱいに映った。 「そうですね」 毎日見ているはずの空が信じられないほど広く思えた。  船を降りるとふたりは食事にした。外のイートインスペースで人質が止める間もなく、主治医があれこれ注文する。 「君、傍若無人すぎませんか」 「医者が変なもん進めるわけないでしょ。あ、来た来た。んー、トマトの煮込みおいしい。そっちは?」 「おいしいですよ。でもこれなんだろう」 「たまごじゃない?」 「なんの?」 「知らない。メニューには卵料理って項目に乗ってた。おいしいならいいじゃない。聞かないほうがいいこともあるわ」 「それはそうですね」 さすが革命の志士。細かいことは気にしない。 「これは牡蠣ですかね」 「うん。あ、これひとり三つよ」 「わかってます。僕も算数ぐらいできます」 「通はレモンかけないって知ってた?」 「僕通じゃないです」 「じゃあ、全部かけちゃうわ」 「うわ! かかりましたよ。汁」 「あらそう? ごめんなさいね」 誘拐犯は牡蠣を口に含んだ。 「思ってないでしょう」 「はあ、おいしい。新鮮さが違う。さすが港町。いらないなら食べてあげるね」 「結構です。レモンかけられて牡蠣食べ損ねたら悔しくて今日は眠れない」 「けち臭い。もっといいもの食べてるでしょう。官僚先生?」 食べている。もっといいトマト煮込みももっとふっくらとした牡蠣も食材不明ではない絶品のたまご料理も食べている。 「それはそれ。これはこれです」 でも、要人と高級料理を食べるより潮風に吹かれて地元料理食べていたほうが確実においしい。 忘れていた。  たっぷり時間をかけた食事が終わると今度は電車に乗った。 「どこ行くんですか?」 「遠く」 「遠く?」 「遠くは遠く。誘拐犯に行き先聞く被害者がいますか?」 「誘拐ねえ」 人質にはすでに誘拐の目的がわかっている。わかっていて着いてきている。だが、行き先がわからない。 「あ、見て! 綺麗ねえ」 誘拐犯は被害者そっちのけで窓の景色を見ている。 「素晴らしき山々。田園風景。これを守り切ったってことだけでも命をかけた甲斐があったと思うわ」 「そうですねえ」 暴君はあそこを切り開いて別荘を建てようとしていたのだ。あの財政状況だ。新たに税を作って取り立てる気だったのだろう。 「あ、食べる? さっき買った」 誘拐犯は包みを開いた。 「いただきます」 自然な甘さがじんわりと胃にしみる。 「おいしいですね」 「うん」 誘拐犯は再び外の風景を見た。その姿をぼんやり眺めながらいつの間にか人質は寝てしまった。こんなに寝入り端がこんなに気持ちよかったのはいつぶりだろう。  人質が目覚めると、外は薄暗くなっていた。誘拐犯は眠っている。実に能天気な誘拐犯だ。 「起きてください。もうすぐ終点ですよ」 「あ、そう? じゃあ、降りるよ」 誘拐犯は残りのお菓子をすべて口に突っ込んだ。 「ほかにどうするんですか。本当はどこで降りるんです?」 「ここでいいのよ。だって行き先は遠くだもの」 誘拐犯は軽やかに立ち上がると外交官の手を取った。そして全然迫力のない声で「とっとと歩け。人質め」と言った。周りに人がいなくて本当に良かったと人質は思った。誘拐犯は持ってきた大きなカバンを自分で持とうとしたが、人質はそれを止めて自分が持った。  外はすでに寒かった。誘拐犯は外交官から大きなカバンを受け取ると中から自分用と人質用に厚手の上着を出した。もちろん人質は誘拐犯に自分の上着を渡した覚えはない。 「誘拐の上に窃盗まで」 「お手伝いさんに言ったら持ってきてくれたのよ」 人質は頭を抱えそうになった。 「さあ、行きましょう」 「今度はどこへ?」 「だから言ったでしょ?」 誘拐犯は微笑んだ。 「遠くへ行くのよ」 「遠く」 「近場でお茶飲んでからね」 誘拐犯は微笑んだ。久しぶりに見るまぶし気な微笑みだった。夕日が目に入ってしまったのだと人質は思うことにした。  お茶を飲んで少し街をぶらぶらすると、また列車に乗って終点まで行った。外はすっかり暗くなっている。 「こっち」 誘拐犯は言葉少なになっていた。人質は黙って彼女に従った。そして小さな料理屋に入った。主人は誘拐犯と顔見知りらしい。誘拐犯が何か言う前に、「こちらですね」とふたりを奥の個室に通した。奥の部屋だったが、夜景の素晴らしい部屋だった。月明かりがまばゆく、明かりがいらないほどだった。 「注文はもうしてあるの」 誘拐犯はそれきり黙った。人質はうなずいた。やがて料理が運ばれた。ありとあらゆる美味しいものがテーブルに所狭しと並んでいる。 「食べきらないとお店から出られないと思ってね」 誘拐犯はドアを閉めた。邪魔とばかりに服を緩める。人質も服を緩めるとグラスを手に取った。 「誘拐に乾杯」 誘拐犯はにやりと笑った。 「人質に乾杯」  ランチ以上に時間をかけてふたりはとうとうすべての皿を空にした。 「僕帰ります」 人質が言う。誘拐犯はうなずいた。 「そう言うと思ってた」 「僕を国から解放してくれたんですね。君は」 人質は微笑んだ。 「違うわ。しようとしただけ。失敗したわ。『誘拐』してまで強引に国から引きはがしたけれど、やっぱり駄目だった。あなたの頭の中にはいつだってこの国がある。例え、この国に殺されそうになってもあなたは才能を国にささげる。昔から少しも変わらない。忘れてたわ。そのことを。走り回っているあなたの噂を聞いている内に心配ばかりが募って、一刻も早くあなたを少しでも遠くにやってこの国から解放させようと思ってしまったのよ。でもそれは単なる私の我がままだったわ」 誘拐犯は立ち上がると乱れた服を直した。 「帰ったらね。あたしに脅されたって言うのよ。そしてあなたの日常に戻ってね。これ以上遠くに連れて行けそうにないから」 誘拐犯は人質を立たせると、乱れた服を直し、カバンから別の上着を出した。いつも彼が要人に会うときに使っている上着だった。 「元気でね。そしてごめんなさい。でも安心して。あなたが外交官に戻れなかったその時は、命に代えてもその決定を覆してみせる」 出ていこうとする誘拐犯に人質が問う。 「どうして僕が途中で逃げなかったかわかりますか?」 「自分で言ったじゃない。『君を通報するなんてできるわけないでしょう』って。同志に甘いのは感心しないわ」 「君、元諜報員のくせにひとの話をちゃんと聞かないんですね」 人質は微笑んだ。 「僕は『同志を』じゃなくて『君を』と言ったんです」 誘拐犯は振り向いた。 「僕は君の力を借りなくったって外交官に復帰できます。船の上で言ったことは冗談です。浮かれてたんです。僕」 「浮かれてたって」 「ねえ、お願いがあるんです」 人質は手を離した。 「なに」 「僕がもし、今回みたいにワーカーホリックしたらね」 「うん」 「君に止めてもらいたいんです」 「また誘拐しろって?」 「それは大変魅力的なお話です。今日は僕、本当に楽しかったですから。でも、君の言うように僕の頭にはいつもこの国がある。何かあるたびに遠くに行かされるのはちょっと困ります。だからね」 人質は誘拐犯の手を取った。 「ずっと僕のそばにいてくれませんか。そうすれば君は僕を誘拐せずに済むし、僕は遠くへ」 誘拐犯はそれ以上、人質に言わせなかった。握られた手を引くと唇を重ねた。 次の日、誘拐犯と人質は上司に事の顛末を報告した。上司は始末書と謹慎を命じた。期間は十日。結婚式の準備にはまずまずな時間だ。 かの外交官はのちに外交の代名詞となる。
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