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家族の夢
あいつから逃げて、今は異国の地にいる。
生活は母と私がそれぞれ働くことでなんとか上手く行っている。妹はやっとこちらでの学校への通学の目処がたった。最初のころは、国の文化の違いが身に堪えることも多かったが、なんとか生活にもリズムが掴めてきていた。
こちらで生活を始めた最初の頃、辛い気持ちを支えてくれたのは、幼い妹の夢だった。
「学校の先生になりたい」
それは国をでる前からの妹の口癖で、そして、それは遠い異郷の地であっても実現可能な夢に思われた。様々なものを失いながらもたどり着いたこの地で、その夢は私たち家族全員の夢にも思えた。私と母は、その夢があったからこそ踏ん張り続けることができたのだ。
生活が落ち着き、家族皆で一緒にいられる時間も増えてきた。私と母は、同じ職場で働くことは叶わず、別々の職場を持ったが、結果としてそれは、幼い妹の面倒をみるには好都合で、片方が相手をできない時には、もう片方が妹の食事や、洗濯などをまかなうことができた。今日は家族三人で久しぶりの食事が取れる。今では週に何度かできるこのイベントも、妹が学校に通い始めたら、機会が減ってしまうかもしれない。束の間の、いや、新しいスタートのための余暇時間と思っている。
私は妹に「大人になったら何になりたいの?」と尋ねた。答えはわかっている。ただ、その昔からの問い返しを期待していた。いつも通りの答えを聞きたかったのだ。
「私はアイドルになりたい」
少しだけ動揺した。それはここでは叶わないかもしれない、そう思った。けれど、小さな子どもの言葉だ、と割りきろうとした。無邪気に笑う妹に何か言おうという気にはならなかった。しかし、空気が変わったのを確かに感じた。冷蔵庫の中の食材に手を伸ばした母が動きを止めた。冷蔵庫の扉が閉まろうとして母の体を挟んだ。母は両手を下ろし動かない。
『ああ、まずい』そう思った。
「まだ小さいんだし、子どもの言うことだから変わって当然だよ」
私の言葉に母は、反応しない。妹は訳もわからず母と私を交互に見つめている。そして私は見た。母の目を見た。妹は今にも泣き出しそうだ。子どもなりに何かを感じ取ったのだろう。母に視線を向ける。母は、シンク下の棚から包丁を取り出した。私は背中に冷や汗を感じた。母は言葉にならぬ声を絞り出すような苦悶の表情を浮かべ、包丁で空を切る。何を切るでもなく振り下ろされる包丁。妹はその場を動けず固まっていた。
「2階に上がってなさい!」
思わず叫んでいた。妹は体を一度びくつかせると、駆け足で2階への階段を登っていった。
母は無作為に包丁を振り続けている。私は後ずさる。体がぎこちなく重く感じる。
「夢なんて成長する過程でいくらでも変わるものじゃない、気にすることないよ」
私は震える声を、それでも普段通りの口調に聞こえるように努めた。母の口は声にならずに動いている『どうして』そう繰り返しているように思えた。
「ごめんなさい!」
気づくと一度2階に向かったはずの妹が怯えながら、階段を降りてきていた。母の視線が妹に向かう。
「バカ!2階に戻ってなさい!」
私は悲鳴のように叫ぶ。妹は表情を歪め、恐怖し、階段を駆け上がる。母に視線を戻す。母はこちらを向いていた。包丁を動かす動作は単調で機械的に見えた。しかし、そこには確かな殺意が感じられた。私は妹がこの場離れた安堵と自身の身の危険を同時に感じた。『私がここで死んだら妹はどうなるのだろう』そう思ったとき、母が母でないものに見えた。体にいやに力が入っていた。冷や汗が背中を伝う。
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