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「俺、遠くに行こうと思うんだよ」
ある日の昼下がり、近所の喫茶店でレモンティーを飲みながら読書に興じていると、突然、目の前に座った男は深刻そうな顔をしながらそう言った。
僕は読んでいた本から目を離し、男に視線を向けた。
「この街を離れる前に、誰かに伝えておきたかったんだ」
いつの間に頼んだのか、男の目の前には珈琲が置かれていた。
「ここの珈琲いつも苦くてさ。砂糖とミルクを入れないと飲めたもんじゃないのに、何でだか、いつも一口目はブラックで飲みたくなるんだ」
そう言って、男は一口珈琲を飲む。やっぱり苦い、苦笑しながら男は砂糖とミルクを珈琲に入れ、マドラーでゆっくりと混ぜる。
「最後にここの珈琲を飲めて良かった。それじゃあ、そろそろ行くよ」
珈琲を飲み干し、少し名残惜しそうな顔をして席を立った。
「最後に言うことはないのか」
僕の顔をじっと見て、少し間を置いてからもう一度席に座った。
「俺さ、頑張ったんだ。色んなことがあったけど、結局変わることができなかった。この前、会社の偉い人が言ってたんだ。短所を見るんじゃなくて、自分の長所を見て良いところを伸ばしていこうって。でも結局、人ってないものねだりだから、そう簡単に割り切れなかった。それで短所ばっかり見て、色んなことが重なって、精神的にしんどくなってしまったんだ。きっと、このまま生きていても、次から次に壁が立ちはだかる。だから・・・」
男は言葉を詰まらせた。
「今にして思うよ。長所を伸ばすとか、そんな大層な話じゃなくて、自分をもっと好きになってあげられたら良かったなって。生きてるときは辛いことばっかりだったけど、障害から逃げてでも、自分を愛しぬいてあげれば良かった。自分は弱い人間だって分かってるからこそ、守ってあげたかったな」
男は再び席を立った。
「そろそろ本当に行くよ」
少しずつ体が透けていき、今にも消えてしまいそうになっていた。
「なあ。これから俺が行く場所って、どんな所なのかな。笑ったり、怒ったり、悲しんだりできるのかな。もうこういう感情もなくなってしまうのかな。もう何も考えられなくなるのかな。新生活は大体、不安と一緒に希望もあったんだけど、今回はそれもない。不安で不安で仕方がない」
「これから行く所は、生きている人間は誰も行ったことのない遠い場所だ。誰も分からない。ただ、もう不安がらなくて良いと思う。この道を選んだ自分を信じるしかない。この道を選んだ自分を尊重してやるしかない。この道を選んだ自分を愛してやれよ」
男は少しだけ笑った。
「優しいんだか、優しくないんだか分からないな。まあいいや。もう考えるのはやめた。最後に話を聞いてくれてよかった。それじゃあ、さようなら」
男は消えてしまった。
僕は読んでいた本を閉じ、さっきまで男が座っていた席を見つめた。
最初は酷く思いつめた顔をしていた。まだ追い詰められた状態を引きずってここに来たんだろう。でも、話をしているうちに、晴れやかな表情になった。こうなってしまう前に、どうにか手を打つことはできたのではないかと思ってしまう。
不意に隣に気配を感じ、視線を向けると、そこには髪の乱れた女が座っていた。
「私、遠くに行こうと思うの」
今日はまだこれで二人目だ。この後も、どんどんやってくることだろう。
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