傷心の梯子

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 日が落ちるまであと二時間くらいだった。  自宅に呼びつけたタクシーに乗り込み、「駅まで」と一言だけ伝えた。彼はバックミラー越しにチラッと私を確認するとアクセルを踏み込んだ。  彼は私の様子をしきりに気にして「どこまで行くの?」と聞いてきた。 「駅よ」 「そこからどこへ行くつもり?」  行くところはいくらでもあった。  永住すべき場所でなければ、いくらでも。  窓の外を見やると、景色がかすんでいた。泣いたのは、久しぶりだった。泣くことさえ忘れるくらいだったのに。  私は頬杖をつくようなふりして目尻をぬぐった。  黙っている私を見かね、彼は「どうして俺を呼んだの」といった。 「タクシー運転手だからじゃない。足代わりに他の男なんて呼べないでしょ。そのままズルズル俺の部屋に来ないかなんて誘われるのよ」 「俺だったら安心ってわけ?」 「仕事中でしょ。駅まで行ってくれればいいの」  いつの間にか秋だった。街路樹が色づき始め、夕焼けさえも秋に染まっているような気がする。  同棲を始めたのはつきあってから間もない頃で、年に何度も降らない雪のさなかだった。  年甲斐もなくあの男に振り回され、気がつけばあの男以外なにも見えていなかった。 「……あいつも、いつ言おうか迷っていたらしい」 「私の肩は誰が持ってくれるの」 「いや、あいつが全部悪いよ」 「そうよ。あいつが悪いんだから。あいつの悪口言って、あることないこと吹き込んで、あなたをあきれさせて、そうすることぐらいしか、あいつに仕返しできないじゃない」 「俺はもう充分あきれてるよ。このまま友達でいられるのかってぐらい、あいつにはあきれてる」  それでも彼らはずっと友達でいるのだろう。彼らにとっては、なにヘマやってんだよって、そんな一言ですまされる話なのだから。  タクシーは日が落ちる前に駅に着いた。 「行くところあるのか?」 「私だって友達ぐらいいるんだから」  強がったふうなことをいって鞄の中を探る。  財布を出そうとしたら、メーターが回っていなかった。 「言い足りなかったらまた今度な」 「ありがと」  私は両手に荷物を持ち、駅の階段を上った。  本当は聞いてほしいことなんて、なにもない。  ただ、誰かの優しさに触れたかった。  傷心の私にはこれくらいのわがままは許される。  背筋をしゃんと伸ばして歩いた。  いつか、私のプライドが立ち直らせてくれる。  あの程度の男なんて。  次に会う女友達も、きっとそういってくれるだろう。  不意にうしろから名前を呼ばれて振り返る。  彼が追いかけてきていた。  まさかと思いながらも抱きすくめてくる彼を黙って受け止めた。 「俺のところへこいよとか、いっちゃダメなのか?」 「……今はね。今は、友達のうちを梯子して慰めてもらうの。女々しいでしょ?」 「いや……」 「私、また誰かを好きになれるかな」 「それが俺だったらうれしいけどな」 「だいじょうぶ」  そういって私はそっと彼を引き離した。 「あなたならきっと優しくしてくれるって思ってた。ありがと」 「今度は俺の車の助手席にな」 「そんなこといって。携帯の番号変えないでよ?」 「それはこっちのセリフだ」  はにかむ彼に手を振って駅へと向かった。  すべてが吹っ切れたみたいに、口角が上がっているのが自分でもわかった。
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