好都合です

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「おまえ、クビな」 「…………は?」  会社に出勤したとたん、課長に呼び出されクビを宣告されました朝霧美空(あさぎりみく)です。 「は? じゃなくて、クビ。今日中に荷物まとめて出ていけよ」  話は終わりだと、課長はまるで犬猫を追い払うかのように、シッシッと手を振った。 (その手を切り落として、沸騰した鍋で煮込んでやろうか。この豚野郎)  内心でそう思いながらも、私はにこやかな笑みで、一言も話さずに頭を下げて、豚、じゃないや、課長の前を辞した。大人ですからね。 「朝霧さん、会社、やめちゃうんですか?」  自席に戻ると、隣の席の、桐谷優香(きりたにゆうか)が、泣きそうな顔で、私の顔を見てきました。  なんでそんな涙目なんですか。私とあなたはそんなに親しくないでしょう。むしろ、あなたの尻拭いをやっていたのは、私ですよ。あぁ、仕事を押し付ける相手がいなくなって、困っているのですね。納得です。 「好きで辞めるのではなく、上の方針で、切り捨てられるのですよ。いわばリストラです。間違えないでください。重要ですので」 「だ、だけど! 辞めたくないなら、ちゃんと言わないと!」 「辞めろと言われたのですから、私は潔く辞めますよ」  まったくピーピーと騒がしいお人ですね。鳴くなら小鳥のほうが、よっぽど可愛くて、癒しをもたらしてくれますよ。  私のことを構うより、ご自分の仕事をしたらいかがですか。 「で、でも……」 「でももなにも、もう決まったことです。桐谷さんも、私のことを構わないで、ご自分の仕事をなさい」  私は不要となった書類をシュレッダーにかけるため、席を離れました。まああの小娘(桐谷)がうるさいのも、理由の一つですが。  さて、唐突に明日から暇になったわけですが、どうしましょうかねぇ。幸い、蓄えはありますし、副業でやっていたライターに本腰をいれてもよいかもしれません。だとしたら、まずは環境作り。  いや、その前にずっと旅行にいっていなかったので、気ままな一人旅もいいかもしれませんねぇ。  久々に、カメラを取り出してもいいかもしれません。ふふっ。考え出したら、やりたいことがいっぱい出てきました。  そうと決まれば、早々に荷物を片付けて、旅行の算段をたてましょう。こんな都会の閉鎖空間よりも、自然溢れる森にでも行きましょうか。今は秋。紅葉を見に行くのもいいですし。  予定が決まった私の行動は早いものでした。私はこの会社に勤めてまぁそれなりの年月がたっていますから、当然ながら私が育てた仕事ができる子が複数いるわけで。  一人に負担が掛かりすぎないように、うまく分散をして、わかりやすいように、私が今までメモしていた内容も添えて、仕事を任せました。  本当に、急に押し付けることになってしまって、申し訳ないです。急ぎの案件がないだけ、まだ助かりました。 「朝霧さ~ん。どうして、わたしにも仕事を、振ってくれないんですか?」  ……この桐谷(おんな)はなにを言っているのだろうか? 自分の仕事もロクにできないようなやつに、任せるはずがないでしょう。結局、あなたに振っても、私の出来がよくて可愛い後輩たちに、仕事が回ってしまうのですから。 「桐谷さんは桐谷さんの仕事があるでしょう? もしかしたら、今後は私の代わりとして、多くの仕事を裁かないといけないかもしれません。ですから、私の今持っている仕事をお任せするのは心苦しいので」 「え!? わ、わたしのことを、気遣ってくれるなんて……! やっぱり朝霧さんって、いい人ですね!」  辞める人間に媚を売ってどうする。アホめ。  桐谷さんのことは放っておいて、私は私の仕事をしましょう。すべては快適に旅行に行くため!  引き継ぎをしているうちに、定時になってしまいました。思っていた以上に私の抱えていた仕事は多かったようです。驚きました。嫌ですねぇ、知らずに社畜なっていたとは。  今日はそのまま私が育てた可愛い後輩たちが、お別れ会をしてくれることになりました。まぁただの飲み会なんですけど。  普通の会社の飲み会なら、その分、給料上げろと思いますが、後輩の言葉は無下にできませんからね。あ、当然のことながら、桐谷さんは誘っていませんよ。空気が悪くなりますからね。 「なんで課長よりも仕事ができる朝霧さんが、クビなんですかー!」 「俺、やっていけないですよー!」 「むしろ課長がやめろー!」  飲み会が始まって、それなりに酔いが回ってくると、後輩たちが叫び出しました。  あなたたち、気持ちは嬉しいですが、個室とはいえそういうことを、大っぴらに言うものではありませんよ。 「エスケープしましょう!」 「サボりをかっこよく言っても、ダメですよ。自分のために、お金を稼ぎなさい」  ブーブーと不満が飛びますが、私は気にせずレモンスカッシュを口にする。さっぱりして、美味しいですねぇ。  私はグラスから手を離し、彼らの顔を見渡します。 「いいですか、みんな。あの会社は正直言って、いい会社とは言えません。ですが世の中、就職難であるのも事実」  私が真面目な話をしだしたからか、みんなお酒を飲む手を止めて、真剣に話を聞いてくれます。ほんと、いい子達で涙が出そうです。 「しかし、必ずしも正社員であることが、正解というわけではありません。それで心身を壊しては、もともこもないですからね。このご時世、ネットで稼ごうと思えば、稼ぐことはできます。ですから、どうしても無理だと思ったら、一斉にやめてやりなさい。いっそのこと、ここにいるみんなで、新しい会社を建てるのも、ひとつの手ですからね」 「じゃあ、朝霧さん、社長になりましょうよ!」 「そうですよ! よっ! 敏腕社長!」  持ち上げられるのは、悪い気分ではありませんね。可愛い後輩からのよいしょなら。ですが、私にはやりたいことがありますし。 「残念ですが、私はやりませんよ。しばらく一人旅というものをしてみようかと思っていますから」 「あー。そういえば、ずっと旅行に行きたいってこぼしてましたもんね」 「えぇ。せっかくの機会ですから、リフレッシュをかねて。今までずっとあの豚と小娘の相手をしていたせいで、疲れてしまいましたから」 「朝霧さん、素がでてますよー」  おっといけない。私としたことが。    それなりにいい時間になったので、彼らは明日も仕事がありますし、解散することになりました。 「朝霧さん! いつでも連絡くださいね!」 「むしろ、俺らから連絡しますーー!!」 「みんな、気を付けて帰ってくださいね~」  可愛い後輩たちを見送り、私は都心の夜空を見上げました。  都心はコンクリートジャングル。昔、どこかでそんなフレーズを聞いた記憶があります。夜でも決して消えない明かりのせいで、汚れた空気のせいで、星など見えるはずもなく、そこにはただただ黒い空間が広がっているだけ。  道で立ち止まっていても、誰も私にぶつかってくることはないけれど、それは私という『個』を認識しているわけでもない。ただ、そこに『物体』があるから、人は避ける。  誰も、私を見ていない。それは今まで、生きていたなかでも同じ。誰もが『個』を見てくれない。だから、私はいつしか『個』を捨ててしまいました。『個』を捨て『大衆』に埋もれることを選んでしまった。  ですが、これからは違います。私はもう一度『個』を取り戻すんです。そのためには、まずはすべてをリセットしなければ。 「さてと、行きますか。私のことを誰も知らない遠くの地へ。私は私を求めて。……なーんて」  私は退屈だった日常から、非日常へと足を踏み出しました。
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