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後編
「落ち着きました?」
「あ、すまん……」
熱々のコーヒーの入った紙コップを受け取り、俺は深く項垂れた。
蓋を開けてみたら、なんてことはない。
扉をガチャガチャやっていたのは、忘れ物を取りに戻ってきた角南和正だったのだ。
角南は、隣の部署に所属する若手社員。
直属の部下でなくて安堵はしたものの、情けなさすぎる姿を目撃されたことには違いなく、やるせなさがこみ上げてくる。
ただ唯一の救いは、スーツのズボンに染みるまで漏らさなかったことだ。
パンツは帰ったら速攻取り替える必要があるけれど。
「忘れ物は見つかったのか?」
「これ。デスクの上にありました」
「あ、スマホか……」
俺ならスマートフォンを忘れたくらいでわざわざ会社に取りに戻ったりしないが、若い彼にとっては、時間や労力をかけてもその日のうちに取り戻しておきたいアイテムなんだろう。
「外から見たらまだ電気ついてたんで、ラッキー開けてもらおうって思って合図したんですけど……」
「ま、まぎらわしいことしないでくれ!」
最初からIDカード持ってたなら出せよ!
たったそれだけの動作をめんどくさがるってどういうことだよ!
「えっと……ごめんなさい?」
「ふう……」
だんだん冷めてきたコーヒーを一口啜り、ゆっくりと喉の奥に押し込んだ。
なんだかものすごく苦い。
「課長、おばけ怖いんですか」
角南の声音が、明らかに楽しんでいる。
否定したい。
ものすごく否定したい!
でも強がってみせたところでもはや効果はないだろうと諦めて、素直に頷くことにした。
「自分以外霊感マックスの家庭で育ってみろ。この世界全体がお化け屋敷だぞ……!」
俺は、祖父母と両親、兄二人との七人暮らしだった。
一見どこにでもいる普通の家族。
だがその実態は……なんと自分以外は霊感の持ち主という恐怖体験満載ファミリーだったのだ!
しかも、みんな揃って霊感レベルは文句なしのMAX。
物心つくとき……いや、その前から、あそこに白いワンピースのお姉さんが立ってるだの、あのお兄さんは自分の首を探してるだの、ハゲのオッさんが手招きしてるだの言われまくるエブリデイを過ごしてきたせいで、俺は極度の怖がりに育った。
なにせ俺自身はなにも感じないし、なにも視えないのだ。
視える恐怖も分かるが、視えない方はもっと怖い!
「お前は視えなくていいよな」
ある夏の日、羨ましそうに兄にそう言われ、俺は吠えた。
「視えないまま視えるお前らと一緒にいるくらいなら、いっそ視えた方が何倍もマシだ!」
まあそれが家を飛び出してひとり暮らしする所以になったわけだけれど、家探しの時のあんなエピソードやこんなエピソードを話すのはやめようと思う。
思い出すだけでも怖いから!
「コーヒー冷めますよ」
「ん……ああ」
「それにしても、意外でした」
角南が笑う。
「課長って仕事できるし、陰でクールな硬派だって言われてるでしょ。なのにこんな一面があったなんて」
「幻滅したか」
「いえ、俺はむしろ……あ、カップ預かりますね」
空になった紙コップをもぎ取り、角南がスクッと立ち上がった。
この流れはまさか……!
「じゃあ、俺はこれで……」
「あ、ダメ!」
「え?」
「おいてかないで……!」
ちょうど俺も帰ろうとしてたとこだし、すぐ準備するし、準備って言ってもパソコン落として鞄持ってくるだけだし、だから下まで一緒に行って!
矢継ぎ早に紡いだはずの言葉は、音になる前に全部吸い取られた。
角南の乾いた唇に。
「だめですよ、課長」
「角南……?」
「本気で怖がってるみたいだったから、せっかくなにもしないでいてあげようと思ったのに」
え、なに?
いったいなにが起こってる!?
意味がわからない!
「涙目で怖がってるとことか、俺のシャツを震える手で握ってくるところとか、たまらないじゃん?」
薄い唇が、いびつな形を描いた。
俺の知る角南和正はそこにはいなかった。
そこにいたのは、大きな眼にギラギラと欲を滾らせた、野生のオス。
咄嗟に身体を反転させ、でも一歩も進めないまま、その場で膝から床に崩れ落ちた。
「あっ……はっ……な、んだこれ……っ」
心臓の鼓動が逸り、脈拍が急激に上がっていく。
気持ち悪い。
生理的な涙が滲み、視界がぼやけた。
勝手に呼吸が乱れ、肩が激しく上下する。
酸素と血液が全身に充満し、恐怖で冷え込んでいたはずの身体に、一気に火が灯ったのが分かった。
「角南、助けてっ……なんか、おかし……!」
「え、うそ。ほんとに効くんだ、これ?」
角南の手には、いつの間にかプラスチックの容器が握られていた。
くるりと回し、派手なラベルを俺にみせてくる。
そこには――
『ラブラブちゅっちゅ♡特製媚薬!(コーヒー風味)』
なっ!?
「な、んでそんなもの……!」
「面白半分で買ってみたんですけど、まさか効果があるなんてね」
角南の視線が、へたり込んだ俺の頭のてっぺんから足先まで移動し、また上ってくる途中で止まった。
彼が今俺のどこを見つめているのか、考えただけで死にたくなる。
それでも張り詰めた股間が痛くてしょうがなくて、縋るように角南を見上げてしまう。
「角南ぃ……っ」
「どうしてほしい?」
角南が、硬い靴底で俺の昂ぶりを踏みつけてきた。
「ここ、どうしてほしい?」
ああ、なぜだろう。
今になって思い出す。
水無月家の中でも最強の霊感の持ち主だった一番上の兄が、いつも言っていた。
いいか、尚弘。
幽霊ごときで泣くんじゃない。
なぜだから分かるか?
この世の中でで本当に怖いのはな――…
「本当に怖いのは、人間……!」
なんで今の今まで忘れていたんだろう。
生者と死者がともに生きる世界で垣間見たこの世の真理。
兄が伝えたかったのはそれだったのに!
「ねえ、課長」
「あっ……や、やめっ……」
「言わないとずっとこのままですよ?」
ああ。
どうしよう。
どうしよう。
だめなのに。
分かってるのに。
それでも、俺は――
「イ、イきたい……!」
「りょーかい」
それからは、なにがどうなったのかよく覚えていない。
ただ気持ち良かったり、気持ち悪かったり、もうどうにかなりそうになったりした。
そして、なぜだかお尻が痛かった。
飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、なんだか猛烈に怖くなって両手を伸ばした。
そうしたら強く強く抱きしめられて、すごく安心したのを覚えている。
カシャッ。
ゆっさゆっさと揺れる世界で、ふいにそんな音がした。
曖昧な世界の中で、角南が笑っている。
ああ、笑顔が綺麗だな……。
「はい、既成事実」
「へ……あ……あ!?」
角南が手にしていたのはスマホだった。
そしてその画面に映っていたのは、映っていたのは……まさかそんな!
「これ、ばら撒かれたくなかったら……わかりますよね?」
耳の中に注ぎ込まれた甘美な脅迫に、鼓膜が心地よく震える。
思わずはしたない声を漏らしそうになり、俺はようやく心から実感したのだ。
「幽霊の方がまだマシだ……!」
――と。
fin
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