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1.事件
――二十五年前。
風の強い日だった。幸恵はひとつため息をついた。自動ドアが開ききるのを待って外に出る。強い風に煽られた制服のエプロンがはためく。飛びそうになったバンダナを押さえ、幸恵は空を見上げた。先週までの荒れた天気が嘘のように、少し秋を思わせる淡い青空が広がっている。
もうすぐ十月、残暑も少しずつ和らいでいた。
九月最後の三連休の初日。来月からは消費税の十パーセント引き上げを控えており、増税前に買い物客がどっと押し寄せてきたショッピングモールは、蜂の巣を突いたような大混乱なのだった。
この不景気な時代、買い物客が多いのはお店としてはいいことなのだろうが、それにしたってマナーの悪い客が多すぎる。幸恵は思わず溜息をつく。どうして、ショッピングカートを元の場所に戻すくらいのことができないのだろう。午前中だけで、もう六回目。駐車場に放り出されているカートを見つけるたび、幸恵は、季節はずれに冷房の利いた店内と、まだ若干の夏の暑さが残る駐車場の、出たり入ったりを繰り返しているのだった。
そしてそのたびに、広告掲示板の中央に堂々と張られているポスターが目に付く。
《東京マジカルランド 十五周年!》
魔法の帽子をかぶったマスコットキャラクターたちの、今にも踊りだしそうな写真の奥に、大きく打ち上げられた花火。
十四年前、父と母に連れて行ってもらったときのことを思い出していた。一周年記念の盛大な花火に、十歳だった自分が受けた衝撃はとてつもなく大きかった。
「大島さん、お昼時の空いている時間に、休憩行って頂戴。また午後から忙しくなるわよ!」
大柄なパートリーダーが、ぴりぴりとした笑顔で言っていた。「はーい!」と幸恵は返し、それから、もう一度振り返ってポスターを目に焼き付けた。
あの花火。また見てみたいな。
あの子にも、見せてあげたいな。
***
やっぱり。あんなところにいた。
知美はカートを押して駆け寄ると、自動ドアが開いて、熱気が店内に入ってきた。冷房の利いた店内にいると、なんだか温度感覚がおかしくなってくる。ちょっと冷房、利きすぎじゃないかしら。
「大輝、ダメじゃない。勝手に行っちゃ」
知美が言うのもお構いなしに、大輝は「ねえねえ」と、小さな手でカートを叩いた。指差した方向には、《東京マジカルランド 十五周年!》のポスター。
「真人くんち、夏休みに連れて行ってもらったんだって。僕も行きたいな!」
「だめよ、大輝。あなたはお受験があるでしょ? ちゃんと勉強しないと、合格できないのよ?」
「でも僕も、花火、見たいよ」
つい、甘やかしたくなる自分がいる。知美だって、マジカルランドの夏の一大イベントである花火が、どれほど感動的か知っているのだ。でも、
「大輝。今がんばらなきゃ、将来、パパみたいなお医者様にはなれないのよ? ちゃんと私立の小学校に入って、そのために今からお勉強しないと」
大輝は不満顔だ。しかし、今がんばっておかないと、将来苦労するのは目に見えている。自分がそうだった。のんびりとした田舎育ちの両親に育てられ、義務教育の期間を、一学年四十人あまりの小さな学校で過ごした。高校になって東京に進学し、勉強についていけず、面白くなくなって遊びほうけていたら、いつの間にか成績はぎりぎり。危ぶまれながら卒業し、なんとか進学した大学は無名の三流大学で、結局また、勉強をしないまま卒業式を迎えた。当たり前のように就職はなく、アルバイトで食いつなぐ毎日。
そんなとき、偶然再会したお幼馴染が医者になっており、運よく実は両想いだったことが今さら発覚して、運よく結婚までこぎつけた。
本当に運がよかった。でも、この子も運がいいかは解らない。だからこそ、今からちゃんと勉強して、大人になったとき、一人で生きていける肩書きを身につけさせないと。
「ほら、行くわよ。今日は大輝の誕生日でしょ。プレゼント買いに行こう?」
「マジカルランドに行きたい!」
「いい加減にしなさい!」
大輝は下を向いた。大輝はいつも、自分自身を納得させようというとき、下を向く。私だって、連れて行ってあげたいのよ。解って?
知美はきびすを返し、カートを押して歩く。今日は大輝の誕生日。大好きなハンバーグを作ることは決まっていて、あとは何か野菜を使うおかずがほしいけど、何にしようかしら。
晩ご飯の準備のことを考えるが、気が紛れない。大輝の、あの淋しそうな表情。だめだめ、甘やかしちゃ。遊園地も、テレビゲームも我慢するぐらいじゃなきゃ、将来幸せになれないんだから。
でも、せっかくの誕生日なんだから、ケーキぐらいは好きなものを選ばせてあげよう。
「ねえ、ケーキは何にする?」
知美が振り返った。「大輝――?」
***
十二時十五分。警視庁緊急指令センターの緊急ランプが灯った。
一時間前、子どもがショッピングモールでいなくなった。迷子か誘拐かは不明。
一番に現場に臨場していた所轄の警察官からの報告は、そのまま同時通報の回線に転送され、関係各局のスピーカーに流される。子どもの行方不明通報は、最も低リスクである迷子から、最高リスクの誘拐殺人まで、通報内容を鑑みてトリアージされるのだったが、今回のように判断がつかない場合は、万が一を考えての最高リスクとしての対応となる。
そうして、誘拐事件を専門とする捜査一課特殊犯捜査係のオフィスに指令が飛んだのだったが、しかし今日に限って、一係・二係ともに、関東圏域合同演習のために不在だった――
事件担当を振り分ける一課の管理官は頭を抱える。特殊班の代役を任せられる係は一つだけしか残っていなかった。
捜査一課で最も問題の多い、殺人犯捜査七係しかーー
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