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2.臨場
葛木潤のスマートフォンが鳴り出したのは、東京地検の庁舎を出たところだった。東京地検と警視庁庁舎は目と鼻の先にある。書類をやり取りする際、ファックスの次に早いのは直接届けることであり、今日はあみだくじでハズレをひいた葛木が、届けに行くことになったのだった。
《どこにいるの!》
電話を通して、耳を突き刺すような鋭い声。その相手は捜査一課殺人犯捜査七係主任、西岡夏帆警部補、通称『夏帆たん』だった。葛木の直属の上司に当たる、捜査一課唯一の女性警部補。トレードマークは褐色のポニーテール。その彼女がまとめる七係は、捜査一課の中でトップの検挙率を誇るが、その常識に囚われない捜査ゆえに、始末書提出率もナンバーワンだった。
「今、地検を出たところだけど」
葛木が言った。夏帆の方針で、係のメンバーは全員が上下関係に関わらず敬語を使わないことになっている。《ああ、見つけた》と夏帆が言い、直後、葛木の目の前にブルーのシビックが急停車した。
葛木は助手席のドアを開け、身体を滑り込ませようとしたーーが、突然、襟首を後ろに引っ張られ、バランスを崩して尻もちをつく。
「あんたは運転席!」
いつの間にか助手席に乗り込んでいた夏帆が叫び、ルーフに赤色灯を乗せた。
いきなり実力行使をしなくても、言葉で指示してくれたらいいのに。心の中で呟くに留めていたのは、口にしたところで怒られるだけだから。葛木は今年の春、七係に配属されたばかりだが、夏帆に対しては口答えをしたところで無駄だということが、まず真っ先に身に着いたことだった。ということで、葛木は黙って運転席に回り込む。
「行き先は?」葛木が尋ねる。夏帆は携帯電話に目を落としたまま、「練馬区光が丘」と答えた。葛木は頭の中に都内の地図を広げ、即座にルートを計算する。
「ショッピングモールで、子どもが消えたの」
夏帆はサイレンのスイッチを入れ、言った。「子どもの名前は宮沢大輝。五歳。通報はマル害の母、知美。三十八歳。誘拐の可能性が濃いってことらしいわ」
「誘拐事件なら、特殊班の担当でしょ。どうして殺人犯捜査が――」
「特殊班が留守だったの。ちょっと黙ってて!」
夏帆は《パカッと開く動作が格好いい》という理由だけで使い続けているガラケーを耳に当てた。「鴨さん? 逆探知の手配は?――了解。じゃあそのまま、NTTで待機しててね」
通話記録を抑えるために、NTTに捜査員を派遣すること。誘拐事件対応の基本だ。夏帆は確かに、ルールの枠に囚われない柔軟かつ強引な捜査が持ち味だが、しかしそれは、基本が解っているからこそできることだ。しかも今回は、普段は滅多に担当することのない誘拐事件だから、手堅く対応しているのだろうか。とはいえ、迅速な捜査指揮であることは間違いない。
「発生時間は?」葛木が尋ねる。夏帆は携帯電話をジャケットの内ポケットにしまって、「約一時間前」と答えた。
「一時間? 時間、経ち過ぎじゃない?」葛木がとっさに言うと、夏帆は目をカッと見開いて「あたしに言われたって知らないわよ!」と吐き捨てた。
「最初の通報は光が丘警察への迷子申告だったの。で、初動検索があって、どうもおかしいってことで誘拐容疑事件に切り替わって、本部に連絡が来たのはそれからよ。で、その上、特殊班は留守でしょ。私だって、もっと早く一報が来てたら、さっさと対応してるわよ」
そりゃそうだ。事件発生の一報を受けて、夏帆がのんびり待っていられるとは思えない。
「脅迫電話もなし?」
葛木の問いに、夏帆は頷く。なるほど、だから誘拐容疑事件への対応切り替えが遅れたのか。光が丘警察署の担当は最初、おそらく誘拐のゆの字も考えなかったに違いない。
「先に臨場した所轄の捜査員の聞き取りで、黒い軽自動車に乗り込んだ子どもの目撃証言があったわ。ただし、その子がマル害だという確認は取れていない。現時点では一切が不明。現場には和泉と片山を先に行かせてる」
「被害者対策は?」
「芽衣ちゃんよ。NTTは鴨さんが待機してる。一応、逆探知の体制は整えたけど、営利目的かどうか、疑わしいわね」
夏帆は目を細めて言い、腕を組んだ。「失踪から一時間以上の経過。危険を顧みない白昼堂々の犯行と、マル害家族への連絡の遅さ――」
確かにそうだ。被害者家族への脅迫や要求がないと言うことは、それだけ警察に通報される可能性が高くなり、また、警察側に体制を整える暇を与えてしまうということでもある。要求の有無はともかく、営利目的であれば、とにかく被害者宅に一報を入れてくるのが普通だ。
「まだ迷子の可能性もあるんじゃないの?」葛木は一応言ってみたが、夏帆は「寝言は寝て言いなさい!」とあっさり一蹴する。
「緊張感、持ちなさいよ」
「解ってるって」
迷子であるなら、その方がいい。しかし現在にあるのは、子どもがいなくなったという事実のみであり、ならば警察は最悪の事態を想定して動くしかなく、そうすることが自分たちの職務だ。「緊急車両通過、下がって!」葛木が拡声マイクに向かって叫び、追い越し車線の一般車両を退かせる。
夏帆の懐で、携帯電話が鳴り出した。
「あたしよ!」夏帆は出るなり、今度はスピーカーに切り替えた。
《やあ夏帆たん》と和泉秀の軽い声が聞こえた。《電話を通して聴くきみの声も、今日もとっても素敵だね!》
和泉は女性が相手だと、必ず一言誉めなければ気が済まない性なのだが、当然のように裏目に出ることが多い。
「そんなことは言いから、報告!」
《解ってるって》和泉は軽く返答する。どんなに怒られてもめげないのだ。
《この事件、どうやらホンモノっぽいよ?》
「誘拐だってこと?」
《そうさ。子どもを連れた若い女性が軽自動車に乗り込むところを、警備員が目撃しているんだよ》
「別の家族連れじゃなく、間違いなく、マル害の少年なのね?」
《それは防犯カメラを見てから確認するけど、多分、一般的な家族連れじゃないね。その女性、従業員が付けているバンダナをしてたらしいんだよね》
「従業員が――?」
女性。従業員。軽自動車。それらの単語を思考内の犯人像に刷り込ませながら、葛木はアクセルを踏み込み、ハンドルを切る。
「じゃあ、大至急防犯カメラの確認!」夏帆は言う。「こっちは、もう十分以内に着くわ!」
夏帆は電話を切り、今度は捜査車両に備え付けられている無線を手に取る。警視庁管内の警察無線すべてと連係している同時通報無線だ。
「至急至急、捜査一課殺人犯捜査七係、西岡警部補より警視庁本部。先の、光が丘PSへの申告事案、受理番号九二〇について、誘拐被疑事件と認定。光が丘管内および広域各局について緊急配備を要請。ならびに、当該管区の指定捜査員を招集して!」
誘拐事件の捜査においては、何よりも迅速さが求められる。よって、事件を直接担当する指定捜査員以外にも、警視庁管内をパトロールしている自動車警ら隊と、同様の任務を私服で行う機動捜査隊は、緊急配備体制として警戒を強化することになる。
《警視庁本部、了解。――至急至急、警視庁本部より光が丘管内、および広域移動各局。先の受理番号九二○にあっては、誘拐被疑事件、緊急指令三号に切り替え、緊急配備に移行する。各員にあっては、続報に注意されたい。なお、捜査指揮系統は本部殺人犯捜査七係、西岡警部補が統括――》
「至急至急、七係西岡より割り込み送信! 該当事件の指定捜査員および広域各局へ。いい? 対応には秘匿を厳守して。何よりも五歳の子どもが人質になっていること、充分に配慮し、報連相を怠らないこと! 以上!」
言いたいだけ言って、夏帆は無線機を戻した。要は自分の許可なく勝手に動くなと言っているのだった。所轄の捜査員も、警戒巡回で走行中の自動車警ら隊も機動捜査隊も、その全員を事件解決のための手駒くらいにしか思っていないに違いない。
その夏帆はぐっと身を乗り出し、「マル対はバンダナしてたのよね、従業員の」と呟いた。
「なら、従業員に変装していたってことだから、やっぱり計画犯か――」
「計画犯だとしたら、どうして女性一人の犯行なんだろう」
葛木が応じる。「ショッピングモールの駐車場、目撃者が出ることを警戒している様子もなく、脅迫電話もないし」
「最悪の場合は、営利以外を目的とした誘拐――被害者に直接危害を加えることを目的とした誘拐よね」
いつも余裕の不敵な笑みを崩さない夏帆も、さすがに表情は曇っていた。
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