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4.容疑者
「何言ってるのよ! ホシは今も逃走中なのよ、そんなときに会議なんかしてられないでしょ!」
夏帆がいきなり怒鳴りだした。誘拐被疑事件の認定を受けて、管轄である光が丘警察署には特別捜査本部が設置される。それに当たって、上層部の誰かが現場指揮責任者である夏帆に連絡を取ってきたのだろう。しかし会議嫌いの現場主義者である夏帆が、この状況で特捜本部に戻るはずはない。意思統一をした捜査員たちの人海戦術で対応したい幹部と、迅速な事件対応を重視する夏帆とは、ここでいつも対立が起こるのだった。
夏帆は三十秒ほど黙っていたが、そのまま無言で通話を切った。「もう、クソ黒木!」と地団太を踏む。
電話の相手は、殺人犯捜査七係係長の黒木警部だったらしい。七係の中で現場の捜査指揮は主任である夏帆が執っているが、組織の中での統括責任者は黒木だ。その黒木は、夏帆とは全く正反対の事なかれ主義であり、成績重視主義であり、上からの指示に対しては絶対的なイエスマンだった。言うまでもなく、夏帆とは全くそりが合わない。係のメンバーは夏帆の人選が(強引に)採用されているが、しかしさすがに上司まで選ぶことはできない。
再び夏帆の携帯電話に着信があり、「葛木、出てよ」とそれを投げて寄越した。
「はい、もしもし――」おずおずと葛木が出ると、やはり相手は黒木で、うんざりしたような声で言った。
《西岡主任に伝えてくれ。捜査の体制を整理するから、捜査本部に戻って会議に出てくれって》
お願い口調には同情したくもなるが、しかし葛木自身、七係で夏帆たちと捜査をするようになって、現場の意向を尊重してくれない上層部からの圧を肌で感じ、違和感を抱くようになっていた。その圧に対して夏帆のように露骨に反抗する勇気はさすがにないが、しかしどちらかを選べと言われれば、絶対に夏帆を信じる。
「解りました、伝えます」
《頼むよ? 管理官も一課長も、勝手な行動にご立腹なんだから。で、一回目の会議は、このあと十三時半から――》
「あ、係長、電波が悪くて、もしもし、もしもし――」
葛木は携帯電話を遠ざけながら言うと、通話を切った。葛木なりの精いっぱいの抵抗だった。
「あったわよ! この、黒の軽自動車!」
夏帆が指さした一時停止の画面には、黒い軽自動車の後部座席に乗り込む大輝と、それを見守るように立つ女性がいる。年の頃は三十前後か。身長は一六〇センチほど、痩せ型。長い黒髪を一つに括っているのが見える。休日のショッピングモールの駐車場。従業員によって、車に乗せられる子ども。明らかに不自然な光景だ。
映像の時刻はおよそ一時間前。
葛木はふと、自分の思考に違和感を覚える。見守る? どうしてそんな印象を抱いたんだろう。誘拐犯なら普通、見守るではなく、見張るではないのか。
「計画性を全く感じないわね」夏帆が言う。
「とっさに思いついたって感じの慌ただしさよね」
「確かに」と葛木は頷く。「もし事前にエプロンとバンダナを調達して、この計画に備えてたとしたら、こうも簡単に防犯カメラに撮られるわけないしね」
「ってことは?」
「この女性、ホンモノの従業員ってこと?」
「でしょうね。さっきの警備主任を呼んできて!」
葛木は詰め所に戻り、そわそわと落ち着きのない警備主任を手招きで呼ぶ。暗い表情でやってきた警備主任に、夏帆は「あなた、この女に見覚えは?」と単刀直入に尋ねた。
「いやあ、ちょっと解りませんが――」
「じゃあ、警備員を集めて。この人が誰か知りたいの」
「全員ですか?」
「全員よ」
「今すぐですか?」
「あなたね、これで事態が取り返しのつかないことになったら、責任取れるの? あなた一人のために、貴重な時間を無駄にしないで!」
警備主任は唇をへの字にまげて黙り込んだ。自分が警備している建物内で、しかも勤務時間内に起きた緊急事態に対し、その責任の所在は果たして自分にあるのかどうかいう思案顔。
「行ってください」
葛木が最後のダメ押しをし、警備主任が出て行く。その背中に向かって、「とりあえず、この映像はお借りしますよ!」葛木は声を張り上げ、DVDデッキからディスクを取り出す。誘拐事件の捜査には一刻の猶予もない。
「あったよ!」と和泉が戻ってきて差し出したのは、従業員の入館証。貼付されている証明写真の女は、間違いない、防犯カメラに映っていたあの女だ。
「あると思ってたんだよね。こういうショッピングモールは、従業員の入館証は警備が預かっているはずだからね!」
「お前、勝手に持ってきたのかよ」
葛木はちょっと慌てて言ったが、和泉には馬耳東風。夏帆は和泉から入館証をひったくる。名前は大島幸恵。
「大島幸恵の住所調べて。履歴書、雇用契約書!」
「そんな個人情報、簡単には見せてくれないでしょ」葛木の言葉を無視して、夏帆は「なんとしても見てくるのよ!」と和泉に指示した。
和泉はニヤリと不敵に笑って、「任せて夏帆たん!」と言うが否や、また警備室を飛び出していく。入れ違いに先ほどの警備主任が、何人かの警備員を引き連れて、先ほどより十歳は老けたという面持ちで待っていた。
「あ、ちょっとそれ、勝手に持ち出されちゃ困ります」
夏帆の手の中にある入館証を見咎めた警備主任だったが、しかしそんなことに構っていられる状況ではない。
「この、大島幸恵というのはどんな女性ですか」
葛木が尋ねる。警備員同士が顔を見合わせ、囁き合う中から、警備主任が一歩前に出てきた。
「あのね、ここには何百人の従業員がいると思ってるんですか。その中の一人のことなんか、知るわけない」
「あんただけに聞いてるんじゃないわよ」と夏帆が言う。葛木は警備員の一団をぐるりと見回し、目が合った瞬間、とっさに逸らした年配の男を指差した。
「あなた、知ってるんですか?」
「はあ、まあ――」と男は呟く。「三ヶ月前に入ったばかりの子で、そんなに話したことはないんですが」
「彼女、どんな人ですか?」
「若いのに、物静かで真面目でいい子ですよ。あの子ぐらいのもんですよ、スーパーの従業員で、駐車場に散らかっているカートを片付けに行く人なんか」
「つまり、いい人だということですか?」
「ええ。彼女、何かしたんですか」
「それはまだ、はっきりとは解りません」と葛木は答えた。
「ほかに彼女を知っている方はいませんか? 直接話したことはなくても、噂とか評判とか、何でも構いません」
三秒待ったが誰からの発言もない。夏帆が肩をすくめ、それを受けて葛木は「ご協力、どうも」と解散を促す。
「手に入れたよ!」と和泉が駆け戻ってきた。
「大島幸恵の履歴書と雇用契約書一式。年齢は二十四歳。同居人はなし。自宅はここから車で二十分ぐらい」
「OK、よくやったわ!」
「夏帆たんのためならこれくら」
「葛木!」夏帆は履歴書をひったくる。和泉の言葉は大抵、最後まで聞かれない。
「彼女の自宅へ行って。片山を連れてって!」
葛木はちょっと眉をしかめた。
片山さんか、あの人、暗くて苦手なんだよな――と、ちょっと気が重くなったが、しかし頷く以外の選択肢はない。
「夏帆たんはどうするの?」
「あたしのことはいいの。ほら、さっさと行く!」
やはり特捜本部には戻らないつもりか。指揮官らしく、どんと構えて所在を明らかにしておいてもらいたいところではあるが、夏帆にそんな考えなど微塵もないらしい。いつでもどこでも唯我独尊、我田引水。夏帆はそれを自分の長所として最大限生かしている。
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