とにかく遠くへ……。

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 春……。  街を白一色に染めていた雪が姿を消し、頬を撫でる風に優しさが感じられる季節がまた訪れた。  命あるものは冷たく重い空気を拭い去り、生きる事の喜びを確かめるように恋の歌を奏で始める。  野に咲く花はまるでその様子を祝福しているかのように、色とりどりの洋服を纏いながら風と共に踊りだす。  なんて美しい世界なのかしら。  カサカサカサ……。  窓を開けると春の気配がお部屋いっぱいに流れ込んでくる。  胸いっぱいに吸い込んだ香りがとても心地よい。  カサカサカサ……。  あら? 私の手に触れるのはだぁれ?  優しく触れられているような、少しくすぐったいような、そんな不思議な感触。  もしかして目を覚ましたてんとう虫さんが遊びに来たのかしら? 『コンニチハ!』  …………。  …………。    み、見てはいけない物を見てしまった気がするけれど、きっと錯覚よね。  そうよ、そうに決まってるわ。  落ち着いて真相を確かめなきゃ……ひっひっふ~、ひっひっふ~……。 『ボク、ワルイゴキブリジャナイヨ』  …………。  …………。  神様……私がなにか悪い事をしたのでしょうか……。  どうしてこんな試練をお与え……って、お~~! まい、が~~!  嘘嘘嘘! 登ってこないで!  あっちへ行って! 『ヤメテー、トバサレルー』  …………。  …………。  手を振ると同時に姿を消したけど、どこに行ったの?  お外に出て行ってくれたの?  そうよね? きっとそうよね?  カサカサカサ……。  居る!  確実にお部屋の中に居る!  どこに隠れているの! もうこれ以上汚い手で私の物に触らないで!  早くお部屋から出て行って! 『エヘッ、コノオヘヤニ スミタイナー』  そんな所に居たのね……。  いいわ、あなたがその気なら私にも考えがあるんだから!  覚悟しなさい! 『ヤダー、ヤメテヨー』  …………。  …………。  はっ……私はいったい何をしてるの……。  我を忘れて手近な帽子で覆ってしまったけど、この後どうすればいいのよ……。  カサカサカサ……。  手の平の僅か5cm下で奴が動いてる……。  このまま手に力を込めて押し込めば止めを刺せるかもしれないけど、そんな選択肢はありえない。  だってそんな事をすれば、この帽子は一生使えなくなっちゃうし……そもそも潰れた奴の亡骸を誰が片付けるって言うのよ。   『ナニモシナイカラ、ダシテー』  これは幻聴よ、恐怖心がありもしない声を聞かせてるだけなんだから信じちゃ駄目!  手を緩めたらきっと、私のお顔を目掛けて飛んでくるに決まってるわ!  それをこの距離で躱すなんて不可能よ!  でも……。  だったらどうすればいいの?  この体勢のまま持久戦になっちゃうの?  敵は恐竜時代から生き抜いてきた化け物なのよ……。  体力のない私の方が先に事切れるのは明らかじゃない……。  …………。  う……うえ~ん……。 『ナカナイデ、ボクガ ナグサメテアゲル』  五月蠅い! 誰のせいで泣いてると思ってるのよ!  あぁ、きっと私はこの体勢のまま餓死しちゃうんだ……。  警察や記者がいっぱい来て、原因不明の変死事件として新聞に載っちゃうんだ……。  お父さん、お母さん、先立つ不幸を許して下さい。  …………。  …………。  ん?   あれはクリアファイル?  あぁ、私はまだ見捨てられてはいなかった……。  神様、これを使えと仰るのですね!  これを床と帽子の隙間に差し込んで奴を閉じ込めろと、そう仰るのですね!  わかりました。  ゆっくりと慎重に……そうよ、慌てて隙間を開けたら逃げられちゃうもの……。  もう少し……あと1cm……。  …………。  …………。  やった~! 完全に奴を封じ込めたわ!  あとはこのまま窓の外に……。  ううん、それじゃ駄目よ。  こんなに近い場所じゃ、またお部屋に戻って来るかもしれないじゃない……。  遠くへ……出来る限り遠くへ持って行かないと……。  でも、さすがに今から飛行機で移動するのは無理だから、車で……。  とにかく遠くにある広い場所を見つけるのよ!  広い場所だったら怖さが薄れるような……そんな気がするもの。    …………。  一時間走ったけど、この距離じゃまだ安心出来ないわ……。  …………。  二時間……まだよ、もっともっと遠くへ……。  敵の能力を侮っちゃ駄目よ。  …………。   ふふっ……さすがに三時間も走れば戻ってこられないでしょ! 『ヤダー、イッショニ、ツレテカエッテヨー』  我が家の平和は守られた……。  もう、あなたの姿を見る事も無いわ……。  あは……あはははは……。  勝った……私は勝ったのよ~!    …………。  …………。  …………。    疲れたわ……早くベッドで眠りたい。  って、あら?  お部屋の窓が開いてる……。  ふふっ、閉めるのも忘れるくらい気が動転してたのね。  でも、もう心配は要らないわ、窓を閉めてゆっくりと……。  カサカサカサ……。  えっ?  カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ……。  ま、まさか……。 『『『『コンニチハー』』』』 『『『『ヨロシクー』』』』 『『『『オジャマシマース』』』』  …………。  …………。  いやぁあぁあぁぁああぁあ~!   …………。  ……。  。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加