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「おかあさん、おめでとう」
「酒々井はん、夢乃ねえさんを大事にして上げてね」
「そうやわ!俵屋雪乃、酒々井はんを今夜一席御招き致しましょう。是非酒々井はんから直に娘に言ってやってください。皆、休みのところ悪いけれど…」
勤め人の初任給が五十円というこの時代、一晩で遊ぶのに倍の額を積まなければ、これだけの舞妓芸妓を揃えることは出来ないのだ。
「へぇ、御めでたい席どす、うち達も御手伝いして俵屋総出でお祝いしましょう。夢乃ねえさんには訳は内緒で」
求婚の席であることは伏せようというのだろう。ここまでお膳立てされて断ることもできない。
其の晩、正月明けのお祝いという名目で、俵屋の誇る芸妓と舞妓総勢十人が勢ぞろいして、座敷を一つ借り切って華やかな遊びを繰り広げた。
一人で眺めるのは御大尽に成ったようで少し勿体無い気もするが、正人は十分に宴を楽しんだ。
「――ほな、お先に上がらせてもらいます」
「夢乃ねえさん、お先に」
「お疲れさん、気つけて帰るのよ」
含むところのある芸妓達は夢乃を残して去って行った。
「女将と皆さんの御厚意に感謝したりないです」
夢乃に差し向かって銚子を傾けられて、正人はひとりごちた。
「まあ、酒々井はん、それを言うならうちの方ですぅ。何時も置屋の芸妓や舞妓に良うして頂いて…こんな一夜で消える宴でお礼代わりやなんて、ほんに申し訳のうて…」
「とんでもない。良い夢を見せて貰いましたよ。貴女の舞や歌に皆が魅せられるのが、良く解ります」
「うちはもう古株、若い子に道を譲る歳やし」
数え十五の歳から五年、祇園一の舞妓として華やぎを振りまいてきた夢乃も、そろそろ振袖を留袖に替えて艶の部分を磨かなければならない年齢に成ってきたのだ。
「夢乃さんの芸妓姿も、見てみたいですね…」
「酒々井はんはやっぱり――卒業されたら神戸で貿易のお仕事されはるの?」
「それが」
寂しそうな夢乃の声であったが、契機を得た正人は本題を切り出した。
「実は急なことですが――孝平の御爺様の口利きで、この春、倫敦に副大使として赴任することに成りました」
「ろんどん?」
余りにも遠い。
正人の話と、写真でしか触れたことの無い街だ。
夢乃が傾けていた銚子が震えて、正人の杯に触れて音を立てた。心の動きを取り繕うように、
「――おめでとう御座います酒々井はん。夢が叶いはった」
穏やかに正人は笑った。
「有難う。でももう一つ、云うべきことがある。――貴女にも一緒に来て貰いたいのです」
「うちが?」
「――夢乃さん、どこに居てもあなたに傍に居て欲しい。私の妻に成って下さい」
杯を置き、夢乃の右の手から銚子を取りさって、小さな白い指を両手で包む。
「――酒々井はんの御傍に置いて貰えるなんて、うちは幸せ者や…」
温かく包んでくれる手に、夢乃はそっと左の指を添えた。
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