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「俺は平気ですよ。――最近帝大の傍に美味しい蕨餅の店を見つけたんです。路面に乗れば直ぐですから、ご馳走します。ね?」
孝平のマイペースさは正人以上だ。
明日香は呆れて思わず涙を拭って赤くなった頬を孝平に向けてしまった。
「蕨餅?――もう…!」
化粧して口紅を注している女性に食べ難い蕨餅を勧めることは正人ならば絶対にしないだろう。しかも宥める為に甘い物をすすめるなど子供に対する扱いではないか。
しかし、此処は孝平のペースに巻き込まれて仕舞おうという気に成ってしまった。
「――ご馳走に成るわ」
器用に人を慰めることはできなくても、孝平の優しい気持ちは良く伝わってくるのだ。
「ようし、そうと決まったら、ちょっと露さんに出てくると云って来ますよ。靴を履いて待って居て下さい」
二月の京都は未だ底冷えする寒さの筈が、今日は春の予感を感じさせる柔らかい日差しで、日向に居ればコートを羽織らなくても暖かい。
京都帝大の近くにある、香炉堂と看板の掲げられた和菓子屋の店先。
『こんな事で落ち着くのだから、私もまだまだ子供なのね』
日差しを受けながら赤い布の掛かった長椅子に腰掛け、抹茶の温かさを茶碗越しの手の平に確かめながら束の間穏やかな時間を過ごして、明日香は少し気持ちの整理がついたようだ。
「西園寺さん」
「はい」
「小さい頃は、金屏風の前で兄の隣に座るのは私だとずっと信じてたわ。兄妹は結婚出来ないって知って凄く落ち込んで…。母を怨んだ事もあった。従姉妹ならよかったのにって。やっぱり今でも兄のことが好きよ」
「確かに、正人さんは男の俺が見ても、外面内面共に優れて居ますからね」
明日香の兄に対する複雑な愛情については、孝平も重々承知している。正人は拒否することはなかったが正面から受け止めることはせず、上手くかわして来たのだ。
「良い物ばかりを見て育つと、他が皆駄目に見えるのだから損よね。人も同じ。良い所が沢山あっても見つけるのが下手になってしまうもの」
「それは違いますよ。良い悪いを決めるのは絶対的評価では在り得ない、判断する人の相対的な評価ですからね。明日香さんさえその気になれば、幾らだって正人さんより良い人は見つかります」
明日香は飲み干して次第に温かさを失っていく茶碗を長椅子に置いてから、孝平の顔を覗き込むようにして笑みを見せた。
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