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一年程前、京都で起きた連続女性失踪事件の黒幕が関東軍であったために、市井の身では如何ともしがたく、公望翁の政治力を借りるという経緯があったのだ。
「正人さん!俺の話が聞こえてなかったんですか?――参ったなあ…」
きつく癖のついている髪を更に乱すように指で頭を掻き毟りながら、孝平は仕方ないかと腹を括った。
「お年玉を貰うつもりで行きますか…」
夜行に乗って一晩。一等席でも激しい揺れに寝付くことができずに、酒盛りで一晩明かした孝平と正人は酔いか列車の揺れを引きずったままなのか解らない覚束ない足取りで東京駅に降り立った。
丸の内のコンコースで迎えの車を待っていた孝平が日差しが眩しいのか帽子の鍔を眉まで下げてしきりにぼやく。
「まずいなあ…今更ながら眠く成って来ましたよ正人さん」
「おいおい、せめて血走ってる目を何とかしてくれ。御前の御祖父様に会うのに、横で寝てくれるなよ。私が困るじゃあないか。ほら、見て御覧よ天井のドームを。素晴らしいなあ!確か辰野金吾が設計者だったかな…」
「そうでしたかね。俺は小さい頃から見慣れてるからでしょうか、然程どう、とも思いません」
大正三年に落成した東京駅駅舎は、日本人が洋館の設計をするようになった明治終盤から大正初期の傑作のひとつである。天井を見上げてしきりに感嘆の声を上げながら、正人はすっかり疲れも吹き飛んでしまったようだ。
しかし暗澹たる思いと瞼の重さで声まで沈んだ孝平は正人の話を全く聞いている様子は無い。
「この汽車だといっておいたのに、遅いですよねえ。車で一眠り、と思っていたのに」
「汽車で眠れなくて車なら眠れるというのは、やはり育ちが違うのかなあ」
「止してくださいよ正人さん。只でさえこれから祖父に会うなんてまだ夢のようなのに」
やがて二人の目の前に、
明らかに公用車であると判る、交差させた小さな国旗を車体の前に掲げた黒い車が一台止まった。
二人は慌てて足元の荷物を持ち上げ、降り立つであろう公人に邪魔に成らないように移動した。しかし、窓を開けて二人を呼び止めたのは、
「待ちたまえ!孝平君!私だよ」
振り返って相手を確かめた時、何処かで見た顔である、と正人は思った。
四角い輪郭に少し寄り目気味の造作。豊かな白髪であるのに太い眉が黒々としていて気難しそうな印象を与えるが、笑顔を見れば恐さも薄れるものだ。
孝平は今までの愚痴を全て忘れ去ったような明るい顔に戻って車に駆け寄る。
「原さん!――ご無沙汰してます!」
帽子を脱いで一礼した。
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