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原さん、などと気安く呼ぶものだから、正人は一瞬失念してしまったが、
『首相と臆さず普通に話せるというのが、君の凄いところだな』
運転手が開けた後部座席のドアから降り立ったのは、時の宰相、内閣総理大臣の原敬であった。
伊藤博文、西園寺公望がつくりあげて来た立憲政友会を先代の西園寺公望からの立っての願いとあって引き継いだ男ということもあり、西園寺家との縁も篤かった。
「卿に御願いされてね。君たちを迎えに来たんだ。待たせてすまなかった」
「とんでもない!全然待って無いですよ。態々有難う御座います。それから原さん、紹介させてください。私の下宿先の先輩で…というより、兄のように親しくさせて貰っている酒々井正人さんです」
「酒々井と申します」
原は堅苦しい挨拶はいいよ、孝平君の兄貴分なんだから、と気安く正人の手を取って両手で握手しながら、
「君が酒々井君か。卿が随分君のことを買っているようだね、良く話には聞いているよ」
孝平が西園寺卿に正人のことを随分話したらしい。その又聞きであろう。
「まあ――こんな所では話も出来んから、二人とも乗りなさい。卿が私を君たちの話の座に加えたいと仰っていたんだ」
首相を昼間から呼びつけてする話というのも硬苦しそうだ。後部座席に原と孝平が座り、正人は助手席に乗り込む。滑るように車は走り出した。
「原さんも祖父に無理難題押し付けられてるんじゃないですか?新聞読むたびに何だか申し訳なくて…――今回もまさか何事か企んでいるのではと今から会うのが心配で…」
「何も卿から聞いて居ないのかい?はは、まあ、卿のお人柄らしい気はするか。――何にせよ悪い話ではないと思うが」
原は二人を上京させた西園寺卿の意図は既に承知済みらしい。
「教えてくださいよ、祖父から聞くより原さんからのほうが動揺が少なくてすみそうです」
「まあまあ。着けば解ることだ。楽しみにして居なさい」
酒々井君もね、と後ろから話し掛けられて、振り返って返事をするのも無礼だろうと気が引けて、正人は前を向いたままで、
「はい。私も西園寺君のお祖父様に御目通りできるのが楽しみです」
とだけ答えた。原と孝平は、久々に会った懐かしさからか、話が弾んでいるようだ。
正人は少し、眠気を覚えた。
「おう、原君、愚孫をわざわざ迎えに行かせて済まなかった」
庭園を望む外回廊をぐるりと半周した南向きの部屋が、西園寺公望邸の主の構える書院である。一枚板の黒檀の机に右手をつき、肘掛に身体を預けて何時ものように煙管を吹かせながら、公望翁は三人を迎えた。
「こちらに来る途上ですから、造作もないことです」
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