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「そうでしたか…。――御役に立てて何よりです。しかしそれも公爵と首相のお力添えがあってこそ」
と正人は返した。公望翁は苦笑して、
「謙虚だなあ、酒々井君は。もう少し自信を持ってくれないとこれからは困るぞ」
「?」
「――原君、書類は出来ているかね」
「はい」
何のやりとりかは解らないが、原は持参していた鞄から紙の束を取り出して、公望翁に差し出した。
「実は、三月から半年間、裕仁皇太子殿下が欧羅巴巡遊に御出座しに成るのだ」
急な話題の切り替えに、初めは正人も孝平も公望翁の次の言葉を待つしかない。
「殿下は未だ十九歳と御若いが、御付きの護衛や現地の大使は話題の合わぬ御堅い爺さんばかりだ。そこで…」
と公望翁は一息ついてから、
「君に日本国を代表する副大使として四月から倫敦へ行って欲しいのだ。――期間は…殿下が日本にお戻りになられて以降も数年は留まって欲しい。行く行くは大使に、とも考えて居る。――君、聞けば英語と仏蘭西語は堪能だと聞いているぞ。I want to make you an ambassador. Leave it to you!(君に大使になって欲しい、引き受けてくれるな?)」
咄嗟に正人は答えた。
「――I can't support what I don't understand.(私程度で御役に立てるか不安です)」
回りくどいのを抜きにして正面突破が一番の近道、という公望翁の強引さもあるが、流暢な英語が急に祖父の口から飛び出すのだから孝平も驚いてしまう。
「それだけ出来れば上等だ。――卒業後の進路は決めているのかね酒々井君」
「神戸で通訳をしながら貿易の勉強をしようと考えています」
それは以前から孝平も聞いていた。博多の実家の貿易会社を継ぐのだと思っていたが、本人ではなく妹明日香に明かされた事情から、きっと家には二度と戻らないのだろうと薄々は感じていたのだ。
「丁度良い機会ではないか、良かったら向こうで最新の経済学を学んでくるといい。学費は勿論こちらで負担しよう。酒々井君、とりあえず来月の文官高等試験を受けなさい。君の力量なら即合格だ」
こんな契機は二度と無いだろう。祖父が本人に直に話したいという訳も解る。
一瞬。正人に迷いの表情が横切ったのを孝平は見逃さなかった。即答は避けるのだろうか。
しかし、
「――謹んで、御引き受け致します」
正人は座布団から畳に降りて、深々と頭を下げた。祖父は安堵した表情で、
「そうか、そうか。――よし、原君、早速酒々井君に書類に署名捺印して貰おう。孝平、墨を磨れ。それから朱肉の用意」
原が持参してきた書類の束は、正人の英国行きの手続き書類であった。
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