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家の重圧に耐え切れずに飛び出したのは、孝平も同じことであるから良く解る。
しかし、正人は本当は帰りたいのではないのかと孝平は思う。
孝平でさえ、何時もは嫌だと云いながら、実家へ帰れば懐かしさという感傷を憶えるのだ。
帰りたいからこそ、頑なに拒んでしまう。正人が義母を受け入れなかった四つの歳から、その性は変わることなど無いのだ。
自分は何時でも帰ることが出来るから、平然と口に出して実家は嫌いだ、嫌だと騒いで居られる。正人の前で余りにも無神経が過ぎたのではないか。
「――故郷は…遠きにありて思うもの、ですね」
孝平は珍しく、詩の一節を口にした。
室生犀星の『小景異情』。三年程前に発売され、東京を離れる際に高等学校時代の友人から餞にと送られた詩集だ。それまで詩集など手に取ったことも無かった孝平が唯一、空で唱えられる程に熱中して読んだものであった。
「――」
孝平が何かを堪えるように杯を幾度も飲み干すので、正人は少し困ったように首を傾いで、車窓を流れる暗闇を眺める。酔いのためばかりではないのだろう、視界が歪む程に瞳が潤うのが解る。
「そうだよ孝平。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)になるとても
帰るところにあるまじや
――倫敦は帰り難いという点では、うってつけの場だ」
孝平は堪えきれずに幾度も手の甲で瞼を拭った。
「正人さん…。必ず戻ってくると約束してください」
正人は涙が溢れる寸前だったのも忘れて笑い出した。
「なんだい孝平!それでは私が二度と日本に帰らないと云っているようだぞ。幾ら西洋美術に被れていると云っても、国を棄てる気はないよ。外交官に成ることは私の夢だったんだ。御前に喜んで貰わないと、誰と祝杯を上げたらいいのか解らないじゃないか。ほら」
子供のように袖で鼻を拭うなよ、着物を洗うおかあさんが困るだろう、と正人は懐紙を鞄から取り出して山というほど手渡す。紙が原型を留めなくなるほど顔を拭ってから、
「――でも、祖父に返事を促されて少し迷っていたではないですか。てっきり正人さんが日本国に永久に別れを告げる気を固めていたのではないかと思って」
孝平があまりに心配そうに言うので、正人はその時考えて居たことを正直に打ち明けた。
「実は…」
理由を聞いた孝平は心配して損だったと半ば思い、残りの半分は、正人の呆れる程の純情さを何とかして応援しようと奮い立つ気にさせられてしまった。
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