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正人はある決意を持って、俵屋を訪れた。
「実は数日東京へ行って居たもので。遅くなりましたが新年の御挨拶と、――お話が在って伺いました。こちらは御土産です、皆さんで召し上がって下さい」
何時もと様子が違う正人に気付いた俵屋の主雪乃であったが、正人の緊張を解すように笑顔を絶やすことなく、
「まあま、酒々井はん、御丁寧に有難う御座います。今日はうちもお休みで…夢乃は今御遣いに出てますけど直ぐ戻りますから、上がって待っておくれやす」
「いいえ、今日は…女将にお話があって伺いました」
「うちに?まぁ、何でしょう――それにしても、外は寒かったでしょう、早う中へどうぞ…――小梅ちゃん、温かいもの用意して差し上げてなぁ」
「へぇ」
奥に声を掛けてから、雪乃は正人を客間へ通した。
「酒々井はん、御機嫌さまぁ」
「お変わりおへんか」
「今年もよろしうお願い申します」
幾人か普段着姿の舞妓や芸妓が廊下の向こうから声をかけてくる。
幾人もの女性の視線を受けた正人は少し気恥ずかしく思う。
舞妓や芸妓が家族のように集まって暮らす置屋という稼業を営む俵屋は、夢乃の母、雪乃が芸妓として独立してから築いたものだ。
祇園界隈では新興の部類に入るが、どの舞妓も芸妓も芸事がしっかりしていると評判で、特に雪乃の一人娘の夢乃は姿、舞、歌どれを取っても明治改元以後一番の舞妓であると名が高く、一晩に座敷を掛け持つ程政財界人の座敷から声を掛けられる売れっ子であった。
「おかあさん」
「ありがとう小梅ちゃん、――こちら酒々井はんからの戴きものやから、皆に配って上げてなぁ」
「甘いものですから、御茶と一緒にどうぞ」
「へぇ。酒々井はんのお持たせ、皆で何時も美味しい云うて喜んで戴いてますぅ」
小梅はそう云うと菓子折りを頂くように両手で持って下がっていった。
「うちの子達は甘いものに目ぇ無うて――気を遣うて頂いて有難う御座います」
「そんな…御礼を云って頂くようなたいしたことはして居ないですよ。皆さんが喜んでくれたらそれで満足です」
正人はその後、言葉を失ってしまった。
言葉少ないのは何時ものことであるが、此処まで思いつめたような姿は初めてだ。
「そうやなあ。折角やから――夢乃が舞妓になった頃の話でもしましょうか」
「――ええ…聞かせて下さい」
雪乃は喉を潤す為に茶を口へ運んだ。
「あの子には置屋を継がせる積もりはあらしまへんでした。それなのに…」
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