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手の指を折って数えるような年令で親元から置屋へ売られた娘達の悲しさを雪乃は自らの身をもって知っていたから、夢乃は父親を明かせぬ私生児とはいえ、自分のような稼業からは遠ざけたかったのだ。
『おかあさん、うちも踊り習いたいの』
学校から戻った夢乃は、三味線を抱えて舞妓達の稽古場に入り浸った。踊りも歌も三味線も、好きであるからこそ上達も早かったのだ。
「――舞妓や芸妓になるゆうことは、うちと同じで妾になるのかしらと諦めて居たんどす」
やりきれなくなった正人は、声を上げた。
「夢乃さんは、舞妓であることに誇りを持っています。そのように仰っては、貴女も、夢乃さんも、此処の芸妓や舞妓まで賤しめることになる」
「すんまへん。うちもうちの娘達も、酒々井はんがそう云うてくれはってどないに心強いか」
一声発したことで決意が付いたのであろうか、正人はやっと来意を告げた。
「実は四月に、英国副使として倫敦に赴任することに決まりました。――何時こちらに戻るのか判らないのです。お願いです…女将、――夢乃さんを私に下さい!」
音が出る程勢い良く平伏する。
急な申し出に、湯呑みを取り落としそうになった雪乃は、次の瞬間には笑い出して居た。
「何や、そんなこと!――勿論よろしおす!英吉利でも倫敦でも、好きな処へ連れてやって下さい、夢乃も喜んで酒々井はんに付いて行きます」
「――は?」
腰砕けになった格好の正人はそろそろと起き直った。
「さっき申しましたでしょう!夢乃に置屋を継がせる気はあらしまへん。夢乃も、酒々井はんが卒業後どちらの道へ進まれるのかを偉く気に揉んで…とにかく、好き合うてると解ったからには、うちがどうこう言うことやあらしまへん」
「女将から大切な御嬢さんを奪うようで、心苦しかったのです。英国は遠いですから…」
「うちにはまだ仰山、面倒見なあかん娘達が居りますから、寂しいなんて云うてられませんわ」
母親の許しを得た正人は、
「――後日、改めて御挨拶に上がります。私は仮住まいの身で豪勢にという訳には参りませんが…出発前に正式にこちらで祝言を挙げたいのです」
雪乃は裾を改めて座り直すと、両手をついて深々と頭を下げた。
「貴方さまなら安心して娘を預けられます。夢乃をお頼み申します、酒々井はん…」
「女将、御手を上げてください」
襖の向こうから歓声が上がった。
「――みんな、聞いたぁ」
「んまあ、なんやの!はしたない」
雪乃が立ち上がってさっと背後の襖を開けると。
芸妓や舞妓が隣の部屋に押しかけて鈴生りで聞き耳を立てていた。
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