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 潮騒の指先が届くあたり。私はそこで目を覚ました。  誰かの手が、ずっと私を抱き締めていたような、まだ温もりが残っているような気がした。しかし、私は一人で潮騒を聞いている。  部屋の奥から見えるのは、木枠の窓と、その先の青い海。太陽が高いらしい、波が白く輝いている。街路樹が返す光も、その落とす影もすべてが色濃く見えた。  波の音以外に何も聞こえないかと思っていたが、不意に地面をゆっくりと擦る音が届いた。視界の端からぬっと現れたのは、一人の老婆だ。腰が曲がっていて、歩くのもやや困難のようだ。彼女はゆっくりと窓の外を眺めて、それからおもむろに私を振り返った。そうしてまた、ゆっくりとこちらへ歩いて、私をそっと撫でた。ちらちらと細かい光が落ちたのは、埃が光を拾って返したためだろう。  彼女は小さく満足げに微笑んだ。  老婆との時間はその後、少しだけ続いた。あの日、小さな少年が私に触れるまで。  彼は、頬を紅潮させて目を潤ませながら私を見上げていた。とても壊れやすいものでも触れるかのように、そっと指先を伸ばして静かに触れた。彼の手は。柔らかくて暖かだ。  彼は私を連れて老婆に声を掛けた。私を買いたいのだそうだ。老婆はほかの物と同じように、大切な秘密を打ち明けるときに似た声で、私の値段を伝えた。  彼の顔が曇る。私から見ても、小さな少年が買えるような値段ではない。老婆が私にそれほどの値段をかけてくれたのは嬉しいが、少年には申し訳ないばかりだ。  少年は長く考え込み、老婆はそれをじっと見守っていた。  やがて、少年が顔を上げて、私を置いて出て行ってしまった。しかし、老婆は私を元の場所へ戻すことをしなかった。少年が、おそらく彼の母親だろう、その女性を連れてくるのを知っていたのかもしれない。  少年に手を引かれながらもゆったりとした仕草でガラス戸をくぐった女性は、私を見て小さく目を見開いた。少年がどうしてもとねだる。女性は困ったように考え込んでいる。老婆がその二人を、柔らかな眼差しで見つめていた。  女性の目が、しっかりと決意の光を持った。少年に少し待つように言い置いて出て行き、しばらくして小さな包みを持って戻ってきた。  はたして、無事、私は少年の細い腕に抱えられた。  少年の部屋にはいくつも風景を描いた絵が並べられて、その中央にはまだ描き途中のカンバスが置かれている。青い海の絵だった。  少年が腕の中の私を見下ろして微笑み、私は、なぜ彼が私を選んだのか、その理由を理解した。
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