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そこから、私は長い時間をあちらこちらに移ろいだ。
子どもの声が零れる扉、紅茶の香りがする机、雪に閉ざされた窓の傍ら、虫の音がすり抜けていく蚊帳の内側。
「あなたにはたくさん教えてもらったわね」
私を手放すとき、一人の女性が私を撫でて呟いた。あの少年と同じ、絵描きだったようだ。
指針を求めるときも、景観を求めるときも、慰みを求めるときも、その誰かは私に手を伸ばした。私は誰かの知識であり、風景であり、灯りであった。
手も足もなく、一人ではどこへも行けぬ身でありながら、私は誰かの手から手へと渡されることで、遠い距離を歩いてきたのだろう。
街の移り変わりもつぶさに見てきた。低い屋根は伸びに伸びて天の頂を突き刺しそうだ。人はみるみるうちに湧いて出てきて、記憶の中の潮騒を掻き消すような音が聞こえることもある。
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