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 緑に閉ざされた山あいにぽつんと置かれた古書店。店主である老人は、今日も優しく私の埃を払った。  店主の老人は、私を初めて見たとき、とてもうれしそうに微笑んだ。 「これは懐かしいものがやってきた。長い時間を旅してきたのでしょう。また誰かが手に取るまで、いましばらくここでおやすみなさい」  私はずいぶんとくたびれた姿になってしまっただろう。日にも焼けてしまったかもしれない。あの夜、私は誰かに見知らぬ誰かを託されたけれど、はたしてこんな私をもう一度、必要としてくれる人はいるだろうか。  懐かしい潮騒を思い出しながら緑の波間を眺めていると、──── 彼はやってきた。  その眼差しがくるりと本棚を見回して、そうして最後に、私に向けられた。壊れかけたものを扱うように、彼の長い指先がそっと私に触れた。私を見下ろす彼の眼差しは、柔らかで優しく、そして、少年が私に見た期待にも似た光を灯していた。  彼は私を撫で、店主へと声をかけた。店主もまた、彼に尋ね返した。 「妹は… もう、あの白い部屋からは出られないでしょう」  店主へそう答える彼の声は、ただひたすらに静かだった。私を見下ろしながら、彼は小さく微笑む。 「たくさんの風景を見せたいのです」 「今なら、写真も動画もたくさんあるだろうに」 「そりゃいつでも、どこでもたくさんありますが」  店主の眼差しが彼を見据えた。それをしっかりと受け止めて、彼は答えたのだ。 「人の心を介したものは、少ないものですよ」  そう微笑む彼に、店主は深く頷いた。そうして、私を見下ろして囁いた。「頼んだよ」  彼に抱えられて連れてこられたのは、白い病室だった。ベッドの上に少女が寝ている。彼に気付くと嬉しさと安堵を含んだ笑顔を零した。彼は私に触れたときと同じくらい静かに、彼女の身体を抱えて起こした。細い背中に枕を添えて、少女が楽な姿勢を整える。  そうして、彼から少女へ。私が受け渡された。静かだが、大事な儀式のように。  彼女は私をきらきらと潤んだ瞳で見下ろした。頬は白を通り越して青白いが、その瞳の熱は身体を巡ればよいのにと思うほどだ。いま、私は美しいものを見ているのだと思った。 「兄さん、知っている? 本を開くと、わたし、どこへでも行けるの。  海の底の人魚たちにも会えるし、宇宙の果ての銀河も散歩できる」  彼女の小さな足が海底を捉えて滑る。  彼女の小さな手が星の水面を撫でる。  めくるページの向こうで、彼女はこの世界のすべてに触れることができた。 「ああ、あなたはきれいな街の絵をたくさん持っているのね。古い街だけれど、あたたかそうだわ。  今日はどこの街を歩こうかしら」  彼女の白く丸い指先が、私を嬉しそうに撫でた。そうして、私は、ここに来た理由を知ったのだ。
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