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嵐の朝に 〜 Where are we ? 〜
「今日の夜から明日の朝にかけて、超大型台風がこの街を通過する予定です。公共交通機関も夕方には予定運休されるため、本日の授業は午前で終了することが職員会議で決定しました」
朝のショートホームルームで三年A組の担任である山下雄大が全て言い終わる前に所々で「おー」や「やったー」などと生徒達の歓声が上がり、教室が急に騒がしくなる。
女子高生は一度話を始めるとすぐには止まらない。
教室全体を見回しおしゃべりを止めるタイミングをはかろうとすると、騒ぐ教室の中で一人だけ下を向いている生徒がいた。佐野希美だ。
教壇に立つ山下だけでなく隣の席の田沼あすみも一人だけ喜んでいない様子に気づいたらしく「希美、午後休みだって!」と言って、佐野の肩をパシンと叩いた。その時、足元にゴトンと何かが落ちた。
スマホだ。
「あっ……」
佐野と田沼は顔を見合わせる。そして、教壇に立つ山下の方を向き、目があった瞬間、しまったという顔に変わった。
「スマホは先生が預かるぞ」
山下は席に向かい右手を出すと、佐野はスマホを拾った手でそのまま山下の手に乗せる。
スマホは学校に持ってきては良いが、必ず始業前に電源をオフにしてからロッカーにしまう決まりだ。決まりを破ってしまった場合、担任が放課後までスマホを職員室で預からなければならない。
山下はスマホをスーツのポケットにしまった。
でも、どうして佐野が今日に限ってスマホを持っていたのだろう。
普段から問題なんて何一つ起こしたことなどない優等生だ。
それなのに、なぜスマホを手にしていたのだろう?
「じゃあ、四時間目が終わったらショートホームルームをやるから、持ってきた弁当は食っててもいいけど、帰るなよ」
「はーい」
と、教室のあちらこちらで生返事がおこる。
山下はちらりと佐野の顔を一瞥すると田沼と笑顔でおしゃべりを始めていた。
反省していないのか、切り替えが早いのか。
少しだけもやもやした気持ちの中、出席簿を小脇に抱えて教室を出た。
昼になると空は曇りはじめ、風が少しずつ強くなってきていた。職員室のガラス窓も風の勢いでガタガタと音を鳴らしている。
ショートホームルームが終わって職員室に戻ってきた教員達も帰り支度を始めている。
山下も早く帰って台風の備えをしたいのだが、佐野が職員室に来ない。田沼と教室でおしゃべりでもしているのだろうか。
普段なら取りに来るまで仕事をして待つのだが、今日は山下も早く帰りたくなりスマホを手に取り教室に歩き出した。
職員室から渡り廊下を抜けて教室へ向かおうとすると、右から強い風が吹き左に顔を背ける。その視線の先には校門で車に乗ろうとしている佐野の姿が見えた。
「おーい佐野! スマホ!」
山下は出来る限りの大きな声で叫んだけれども、強い風にかき消されてしまった。
佐野はこちらを振り向く事なく、黒塗りの高級車の後部座席に乗り込むと、そのまま発車した。
山下はしばらくスマホを握りながら立ち尽くしていた。
結局、佐野のスマホは自宅に持ち帰ってきてしまった。
とりあえず自分のスマホに充電ケーブルを繋ぎ、その横に佐野のスマホを置いておく。
台風の様子が気になりテレビをつけてみると、アナウンサーが強い雨風の中、街頭インタビューを行なったり、風の強さを傘をさしながら実況していた。
アナウンサー曰く、今回の台風は過去50年において最強らしい。
山下も自分のマンションのガラス窓に養生テープを貼り、二日分の食料、ポータブルトイレや災害用リュックなどを備蓄し、万全の体制で台風の夜をやり過ごそうとしていた。
ブルルル……。
スマホが震えていると思い手に取ったが着信はない。しかし、まだ音は聞こえる。
佐野のスマホか。
隣に置いてある佐野のスマホの手帳型のケースを開いてみると、田沼からの着信だった。
しかし、スマホはロックされており、出ることはできないし、電話に出たところで、勘違いをされても困る。
スマホはすぐに音をやめるかと思ったが、しばらく鳴り続け留守番電話サービスにつながったようだった。
画面の表示が消えると、スマホの待ち受け画面が表示された。
「あっ、あの時の」
待ち受け画像は修学旅行で沖縄へ行った時、首里城の前で佐野と一緒に取ったものだった。
クラス全体の集合写真を撮るまでのほんの一瞬の待ち時間に佐野から「先生、一緒に写真とろう」と言われて「いいよ」といい終わる前にシャッターが切られた。
普段とは違い、佐野の様子がやけに積極的に感じたけれど、修学旅行で浮き足だっていたからだろう。
佐野が手を伸ばしながら自撮りをした写真は左に佐野、そのすぐ隣に山下の顔がアップで写っている。それに加えて、加工アプリで付け足したのか文字が追加されていた。
「こんな写真を待ち受けにして、他の生徒に見られたらどうするんだよ。今度会ったら変えさせないとな」
そう言いながらも二人が満面の笑みで写った写真をしばらく見つめていた。
台風は予報通り、深夜から早朝にかけてゆっくりと通過していった。あまりに風がうるさくて、窓が割れてしまうのではないかと、不安でほとんど眠ることができなかった。
午前3時に風が落ちついてからやっと眠りに落ち、起きたのが朝7時。今日は幸い土曜日で、台風がこなくても休みだ。それでも落ち着いたら学校に顔を出しておこうと思い、とりあえず、テレビをつけて眠気覚ましにコーヒーを入れる。
いつものニュース番組では台風の被害状況について放送していた。
「台風は様々な地域で大きな被害をもたらしています。渡瀬川の堤防も決壊し、近くの家は完全に浸水しています」
「渡瀬川が決壊!?」
渡瀬川はこの街の中心を流れている。その川が氾濫した。
山下はコーヒーを入れていた手を止め、急いでテレビの前に向かう。
幸い山下のマンションは川とは離れているため、氾濫の影響はなかったが、他人事ではない。
「こちらは視聴者提供のVTRです」
スマホで録画したようなサイズでテレビ画面に表示された動画は、渡瀬川の堤防が決壊する瞬間を捉えていた。
轟々と流れる茶色の泥水が川から少しだけ漏れ出たかと思った数秒後には、脇を通る道路が一気に茶色に染まり、近くの家を飲み込んでいく。
この動画が撮られたのは、おそらく渡瀬川近くの高層マンション上層階からだろう。
今までテレビの中だけだと思っていた災害がこの街にも起きてしまうなんて。
「ちょっと待てよ。あの家って」
渡瀬川から道路を挟んで建つ大きな屋敷は、地元のガス会社の社長の家、つまり、佐野希美の家だ。
山下は急いでスウェットを脱ぎ、ジーンズとカットソーに着替えて家をでると、渡瀬川に向かって駆け出した。
息が上がってくると同時に道路がアスファルトの黒色から泥の茶色に変わっていく。足元の水はスニーカーの底までの深さから足首へ、そして、膝下まで深くなり、バシャバシャと水を踏みつけるように進む。
こんなことになるなら長靴を履いてくれば良かったと思っても、もう遅い。ビショビショになった足で進んで行く。
平屋建ての大きな屋敷。表札は佐野と書かれており、屋敷の門は四分の一まで浸水していた。
山下は門を叩き「ごめんくださーい」と叫ぶ。しかし、返事はない。
それを三度繰り返したものの、あたりは恐ろしいほど静けさが漂っている。
屋敷を少し上から見渡せるところはないだろうかと考え、数歩後ずさってみる。
渡瀬橋ならここより少し高いところにある。もしかしたら、屋敷の様子を伺えるかもしれない。
山下は屋敷を背にして渡瀬橋まで歩き出した。
渡瀬橋は泥が残るものの水は引いており、その一メートル下には濁流が流れている。
もし、佐野がこの川に流されていたら……。
恐怖と不安が押し寄せる。頭を左右に振るが十分に払拭できない。
渡瀬橋の半ばまで歩き後ろを振り返ると、そこには水浸しになった屋敷が見えた。
屋敷の水は波紋を落とすことなく静かに空の青を反射していた。あまりの穏やかさに、もともと湖の中に建てられた建物にさえ見えてくる。
山下は屋敷の中に人影を探してみるが、動くものは見つけることができない。
佐野は避難したのか?
もしかして、流されてしまったのではないか?
それともまだ屋敷のどこかにいるのか?
連絡網から家に電話をしてみればよかった。
何も考えずに家を飛び出してきてしまった。
冷静になれなかった自分が情けない。
結局、家まで来たけれど、何もわからないままだ。
ここにいても仕方がないと思い、家に帰ろうと思ったその時、
「先生」
佐野の声が聞こえた気がした。
まさか思って振り返ると、ブルーのストライプ柄のワンピースを着た佐野がそこに立っていた。
もしかして幽霊かもしれない、なんて思って目をこすってみたものの、そこには確かに佐野がいた。
山下と目が合うと、佐野はにこりと笑顔を向けて、すこしだけ首を傾げた。
「佐野!」
山下は考えるよりも先に佐野の元へ走り出し、きつく抱きしめて存在を確かめる。
「流されていなくて良かった。佐野の無事が確認できて本当に嬉しい」
さらに強く抱きしめる。
「先生、痛い」
「ごめん、痛かったか」
きつく抱きしめてしまった事より先に、自分が教員であった事を思い出し、慌てて体を離す。
「だ、大丈夫だったのか? ニュースで渡瀬川が氾濫したのを見て心配になってここに来たんだ」
山下は取り繕うように言葉を発するのに対し、佐野は笑顔で口を開く。
「いちおう大丈夫。学校が終わってすぐに親戚の家に避難させてもらっていたの。家は見ての通りダメだから、しばらくはホテル暮らしかな。今は駅前のホテルにいて、ちょうど必要なものをとりに帰りに来たところ」
「そっか。しばらくは大変だな。あっ、スマホ」
ジーンズのポケットに入れていた佐野のスマホを差し出す。佐野は両手で包み込むように受け取った。
「ねぇ、先生。さっきの事、他の生徒に見られてたらどうする?」
佐野はいたずらに上目遣いに言った。
ハグした事を見られたらまずいよな。
山下はキョロキョロとあたりを見渡すものの、渡瀬橋には自分と佐野しかおらず胸をなでおろし、咄嗟の言い訳を探す。
「ほら、その……。外国ならこれくらい当たり前だろう。な?」
「うふふ。じゃぁ、そうやって言い訳するね」
山下は恥ずかしくなって目を背けた。
こんな年下の、しかも自分の生徒にからかわれている。
「先生、スマホ見た?」
「見てないよ。だってロックかかっているだろう?」
「ロックがかかっているって知っているって事は、画面は見たんだ」
「いや、その、電話がかかってきていてその時に見た。田沼から電話がかかってきていたぞ。心配しているんじゃないのか?」
「あすみには心配かけちゃったと思って、連絡はしたから大丈夫」
「そっか。あっ、別にスマホを見ようとして見た訳じゃないからな。勘違いするなよ」
「先生の事は信用しているよ。画面見たならわかってくれたと思うけど、それが私の気持ち」
二人で撮られた写真には、加工アプリで追加したのか「先生大好き」と文字が書かれていた。
「あの画像は勘違いされるから、すぐに変えなさい」
「はーい」
やけにものわかりの良い返事に少しだけ不安が横切る。
「ところで、いつからあの写真をトップ画像にしているんだ?」
「昨日の朝から。だから誰にも見られていないよ。大丈夫」
「はあ……」
山下は大きくため息をついた。
「写真を変えるから、もう一度一緒に撮ってくれる?」
「うーん、今回だけだぞ」
あの写真を使われるくらいなら、新しい写真に変えたほうがマシかもしれない。
しぶしぶという表情の山下の隣でニコニコと自撮りをしようと佐野がスマホのカメラを起動させる。
「じゃあ撮るね。3、2、1」
チュ!
頰に何かが触れた。
「お前、何したんだ」
「キス」
スマホをみると佐野の唇が山下の頰につきそうな画像が表示されていた。
「今すぐその写真は消しなさい!」
「えー、だってこれくらい外国では当たり前のことでしょ?」
「ここは日本だぞ!」
「さっきと言っている事がちがーう。それに、さっきはハグしてくれたのに?」
「ちがう、あれは、違うんだよ」
「何がちがうの?」
「いや、だから、それはだな」
ドギマギする山下を「あはは」と笑って佐野は渡瀬橋を逃げるように駆けて行く。
水浸しの街は眩しい朝日を反射して佐野の笑顔をよりいっそう輝かせていた。
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