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私は空を見上げていた
本当は最初から、来ないと解っていた。
私が最初にあの場所で夕焼け空を見上げたのはいつだっただろうか。
多分それは小学生くらいのことだったと思う。
ふと橋の上から見上げた夕焼け空に、心を奪われた。
私は昔から明るい性格だと自負している。
そもそもそういう気質だったし、そうあろうとして生きてきた。
でも本当は、本当の私は、それだけじゃないのに。
あの日あの橋の上から見た夕空に心を奪われた私は、目を輝かせてそのことを当時の友達に言ったのだと思う。
でも、誰も、そうだねとは言ってくれなかった。
つまんない、興味ない、それが正しい小学生の反応だろう。
それから私はあの夕焼け空と、そのときの自分を心の底に仕舞って、明るい自分を演じ始めた。
それから何年もの時間が過ぎて、私は地元の芸術大学に進学した。
あの橋は大学生になってもずっと変わらず私の通学路だった。
そして、大学に入学してから少ししたある日の夕暮れ、大学からの帰り道、あの橋の上で私たちは出会った。
あのときの私と同じ瞳で、夕暮れ時の空を見上げる姿があった。
確か大学で何度か見かけたことがあったと思う。
私は少し躊躇ったが、思い切ってその後ろ姿に声をかけた。
すると彼は驚きのあまりか、うひゃあとかなんとか訳の分からない声を上げて跳び上がった。
私はそれを見て一瞬驚いたが、段々と笑いが止まらなくなってしまった。
なんとか笑いを収め、私は彼に、ここから見る夕陽、綺麗だよねと言った。
彼はいきなりそんなことを言われて、戸惑っている様子だった。
ああ、なんか申し訳ないことをしちゃったな。
せっかく景色を楽しんでいたのに。
「…そうだね」
少しして、彼が答えた。
そのとき、世界が開けたような感じがした。
見つけてもらえた。
遠い過去に記憶の奥底に仕舞い込んだ本当の私が、良かったねと言っている。
そんな気がした。
彼に告白されたのはそれから1年くらい経った頃だったか。
あの時は、記憶にないくらい久し振りに人前で泣いた気がする。
彼は私が泣き止むまでずっと頭を撫でていてくれた。
それはなんだか子供扱いをされているようで恥ずかしかったけど、それもまた心地良かった。
それから2人で色んなことをした。
色んな場所に行って、色んなことを話した。
夢を語ったりもした。
そして、初めて身体を重ねたのは、彼の借りているアパートだった。
それはとても暖かくて、幸せな時間だった。
その後、明け方に目を覚ました私は、まだ眠っている彼を起こさないようにそっとベッドを抜け出した。
そのときちょっとした悪戯心が出てしまったのがいけなかった。
私は好奇心に駆られるままに彼の部屋を漁っていた。
そして、見つけてしまった。
多分彼が私に気づかれないように隠した、近所にある大学病院の診察券、薬や処方箋、検査や治療への同意書、その他諸々。
私は一瞬背筋が凍りつくのを感じた。
そして私は慌ててそれらを元あった場所に隠した。
それから私は、一層彼の体調に配慮しながら、卒業するまでの時間を過ごした。
彼に悟られないように、必死に彼の病気について調べて、勉強した。
彼がパリに留学すると言ったとき、すぐにピンと来た。
ちょうどそこには彼と同じ病気を専門に研究している医療チームがあったはずだった。
本当は着いていきたかった。
でも、彼の死を間近で見てしまったら、受け入れられる自信がなくて、何も打ち明けることができなかった。
「頑張ってね」
ただそれだけ伝えた。
「そっちもね」
いつもと変わらない、そんなやりとりをずっとしていたかった。
そんな気持ちが溢れてきて、止まらなくなった。
それから、1年。
私は大学を卒業してから企業に就職し、その傍でweb上で漫画を描いている。
あの橋は今も変わらず毎日の出勤路だ。
今日は1日中雨が降っていた。
私は定時で会社を上がり、帰路についていた。
あの橋に差し掛かる。
ふと足を止め、今日でちょうど1年だと思いを馳せる。
この1年間彼と連絡を取らなかったのは、急にそれが途絶えるのが怖かったからだ。
私は橋の上から雨空を見上げる。
そのままどれだけの時間を過ごしただろうか。
どれだけ待っても、彼は来ない。
それは最初から解っていたことだ。
でもそれを認めてしまったら、彼がもう何処にもいないということを認めてしまうようで、私はどうしてもその場を離れられずにいた。
夜の帳が降り、人通りが少なくなってくる。
私は橋の上に佇んだまま、ぽろぽろと涙を流していた。
あの日、何も言えなかったこと。
着いていきたいという気持ちに蓋をしたこと。
彼の抱えていたものを一緒に背負ってあげられなかったこと。
1年分の後悔がまとめて押し寄せてきて、涙はいつまでも途切れる様子はなかった。
いつまでそうしていただろうか。
涙がすべて枯れた頃には、もう街の明かりは無くなっていた。
私は明日も会社に行かなきゃいけない。
ずっとこの場所に立ち止まっている訳にはいかない。
そんなことを思って、私は途方もなく重い一歩を踏み出した。
翌朝、まだ辺りは薄暗く、道行く人もごく僅かだ。
私は寝ぼけ眼を擦りながら橋の上を歩いていた。
不意に山間から朝陽が顔を出した。
私はその眩しさに目を細める。
再び目を開けると、朝靄の中に、彼が立っていた。
幻かと思って何度も目を擦るが、どうやらそうではないようだった。
彼は私の方に歩み寄ると、何も言わず、私のことをそっと抱きしめた。
もう何処にも居ないと思っていた彼は、もう一度私を見つけてくれた。
「あったかい…」
自然と言葉が漏れた。
新しい1日の始まりを告げる朝の日差しが、雨上がりの街を照らしていた。
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